宿場の中ほどにある関地蔵院。天正年間の741年、聖武天皇の勅願で、奈良東大寺の僧行基が、大流行した天然痘から人々を救うために、我が国最古の地蔵菩薩を安置しました。関宿は、元々この関地蔵院の門前町として発展しました。
江戸時代に徳川家康が宿駅制度を定めた際。東海道五十三次の47番目の宿場として整備され、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋42軒あったとされます。鈴鹿峠を控えた重要な宿駅として、また、伊勢別道・大和街道の分岐点として、江戸時代に繁栄しました。
本堂南側には、ご本尊として愛染明王が祀られる愛染堂があり、室町時代初期の建物で、国の重要文化財に指定されています。2月と8月に護摩を焚き、修験者や信者が渡る火渡りの神事がある大護摩祈願祭が行われます。悪事災難をせき止めるとして、一年の健康や家内安全を祈願する人々で賑わいます。
重要伝統的建造物群保存地区に選定されている関宿は、街道筋の美観を損なわないため、電線・電柱を移設し無電柱化。また、建物の色彩も落ち着いた色に統一され、銀行の建物も町家風です。
格子戸が設えてある町屋が並ぶ整然とした風景には、江戸時代の風情が色濃く残ります。関宿の中心地にある中町には、大規模な特徴ある町屋建物が並び、元本陣の伊藤本陣や、旅籠だった玉屋歴史資料館、関宿の歴史資料を展示する関まちなみ資料館など観光施設が多く点在します。
一方、地蔵院の門前から西の追分寄りの新所の町並みは、観光施設は少なく、小規模な平屋が並び、お寺や地元の方の生活の中で、町並みが保存されています。
写真は「百六里庭」という公園。関宿が江戸から106里(1里は約3.93キロメートル)離れていることから、そう名付けられました。
現在の関郵便局があるい場所にあったとされる高札場が復元されています。高札場とは、幕府の法度や掟書き、宿場の決まり事などを掲示した場所です。
百六里庭にある眺関亭の建物2階に昇ると、鈴鹿山脈の山々と共に、町屋の屋根が連なる街道筋の街並みが見渡せます。
関宿名物で、ぜひとも味わいたいのが関地蔵院の斜め向かい側にある会津屋の「山菜おこわ」と「街道そば」です。会津屋は元旅籠で、現在は食堂として営業し、土産物の販売も行っています。
山菜おこわは、わらびや鶏肉、野菜などが入ったもち米を蒸し上げた、懐かしい感じの炊き込みご飯です。松茸や栗をプラスした季節限定おこわもあります。街道そばは、温かいそばに、かまぼこ、だし巻き卵、わかめなどが乗った看板メニューです。山菜おこわとそば・うどんを組み合わせた各種セットメニューが充実しています。
また、甘味もあり、白玉ぜんざいやクリームあんみつなどお休み処として、地元の方には酒処としても利用されています。
徳川家光の時代から続く老舗和菓子屋「深川屋」の伝統の逸品が、銘菓「関の戸」。代々服部姓を名乗り、実は伊賀忍者服部半蔵の流れをくむ一族が経営し、街道筋の情報を流していたと伝わります。朝廷に「関の戸」を納め、諜報活動の一役を担っていたと言えるでしょう。
「関の戸」は、赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした、一口大の餅菓子。その味と作り方は江戸時代から今も変わらず、代々受け継がれています。「『関の戸の味変えるべからず』という文書に血判を押す」という掟が存在します。
西の追分は、加太峠を経て、伊賀上野・奈良に至る大和街道との分岐点になります。東海道の京都へは、鈴鹿峠を越えて、19里半(約78キロメートル)の道のりです。
反対の東の追分は、津を経て伊勢(内宮・外宮)へ至る伊勢別街道との分岐点にあたります。
立派な伊勢神宮一の鳥居が建っています。20年に一度の、伊勢神宮御遷宮の際には、こちらも宇治橋詰から移し替えられます。2015年6月には、竣工式とくぐり初め式が行われました。
車でアクセスする場合、東名阪自動車道亀山インターチェンジか名阪国道関インターチェンジで降ります。関地蔵院から少し脇に入った場所に観光駐車場がありますが、満車の場合、国道1号線沿いの「道の駅」関宿や、国道1号線滋賀県方面の西の追分に駐車できます。
「道の駅」関宿には、観光案内所やレンタサイクルがあり便利です。電車では、JR関西本線関駅から徒歩約10分で関地蔵院や東の追分に到着できます。江戸の風情を感じながら、のんびり散策してみましょう。
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