江戸城で見ると東北に当たる「丑寅」の方向(延長すると上野寛永寺と筑波山に行き着く)に、この和気清麻呂像があります。近くには気象庁やKKRホテルなどもあります。像がある公園一帯は平成31年まで工事のため、囲いが築かれてそばに近づけません。しかし遠目からなら全身を、近くからなら銅像の上半身だけは見ることが出来ます。
和気清麻呂は、8世紀の後半頃に天皇の位の禅譲を求めて称徳天皇に取り入った「道鏡」の悪だくみを打ち砕いた、忠節の士です。宇佐神宮から出されたと云われたご神託を、根も葉もないご神託と報告し、そのせいで逆恨みした道鏡から傷つけられ、称徳天皇から左遷されてしまいます。しかしその逆境に耐え、復位してから河川の補修や平安遷都を実現しました。
そしてこの銅像は今でも天皇家のため、その役目を果たそうとしています。銅像の視線の先は大手町にある「誰も手を付けられない塚の主」に向けられ、鋭く目を光らせています。
東京駅と有楽町駅の中間の道を皇居方面に向かうと、馬場先門があります。その左側には大きな広場があり、観光バスの駐車場となっています。近づくと勇ましい騎馬武者の銅像が見えてきます。14世紀の頃、南北朝に分かれて戦った天皇家の戦の中で、忠節を尽くしその義のために散った「楠木正成公」です。
よく見ると馬の首先は桜田門を、そして馬上の楠木正成の目線は皇居宮殿の方向を見据えています。何か異変があれば、すぐに天皇の下に駆け付けるかの様な勇ましさを感じさせます。馬の尻尾の奥から雀が何羽か出入りしています。勇ましさの中にも雀は優しさを感じ取っているのかもしれません。
靖国神社の参道の真ん中に、明治26年日本で最初の本格的西洋式銅像が建てられました。東京三大銅像の一つと云われ、靖国神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像です。GHQ司令官マッカーサーは、この大村益次郎を尊敬していたと云われています。
大村益次郎は長州藩の医師の息子として生れながらも、維新十傑(倒幕・維新を成立)に数えられるほど、持って生まれた才能と努力でその人生を切り開きました。その功績は維新における旧幕府軍との数々の戦を勝利に導き、軍制整備を整えて日本陸軍の創設も行いました。
襲撃計画があるのを知りながら出掛けた先で、同じ長州藩士たちに討たれて、志半ばで落命してしまいます。また落命の前には、西郷隆盛の蜂起を予想していました。銅像が建てられた時期は、大村益次郎の銅像が5年ほど早かった(西郷隆盛像も上野に建設されることが決まっていた)のですが、目線の先には上野の西郷隆盛像があります。
江戸城田安門を抜けて千鳥ヶ淵に向かう途中に九段坂公園があります。そこに品川弥次郎像(西郷従道と政治団体を結成)と並んで、この大山巌元帥の像があります。まるで、靖国神社から上野を見据える大村益次郎を諫めるかのように、静かに佇んでいるようです。
大山巌元帥は西郷隆盛の従兄弟に当たり、警視総監や陸軍大臣も務めて維新の成立に大きな役目を果たしました。日清日露戦争では日本を勝利に導いた立役者でもあります。葬儀の日にはその敵国であったロシア陸軍からも丁寧な弔辞を送られています。ただ、死去した前日に夏目漱石も亡くなっていたため、死亡記事は目立たなかったとも云われています。
この銅像は最初憲政記念館(旧井伊家上屋敷)に置かれていましたが、様々な事情で転々として、昭和44年にこの靖国神社の通りの反対側に落ち着きました。
今回は皇居の周りの銅像に絞ってご案内しました。でもまだ沢山の銅像やオブジェが皇居の周りにはあります(太田道灌・吉田茂・渋沢栄一など)。一つ一つには必ず意味があります。そしてそれを探し当てるのも「旅」といえます。
それぞれの皆さんがお住まいの地域にも様々なオブジェやモニュメントがあると思います。何気なく通り過ぎるだけでなく、足を止めて様々な想像をしてみる価値がきっとあります。
ちょっとした散歩が歴史旅になります。少しの時間で一人でも出来る、お手軽な「皇居周りの銅像探索旅」にどうぞお出かけ下さい。
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索