泉南市「海会寺跡・古代史博物館」で日本古代の歴史ロマンに浸る

泉南市「海会寺跡・古代史博物館」で日本古代の歴史ロマンに浸る

更新日:2016/08/18 14:28

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家
大阪府南部の泉南市には、国史跡・重要文化財に指定された「海会寺跡」という遺跡があります。また、隣接して、出土品を展示する古代史博物館(泉南市埋蔵文化財センター)も建てられています。大化の改新の時代の遺跡と出土品を間近に見ることのできる貴重な場所ですが、まださほど有名でない歴史的穴場スポットなので、ゆっくり見学できます。ぜひ訪問され古代史のロマンの世界に浸ってください。

海会寺跡の遺跡に佇む

海会寺跡の遺跡に佇む

写真:菊池 模糊

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海会寺(かいえじ)跡は日本における最初期の古代仏教寺院の遺跡で、7世紀の飛鳥時代に建てられた「法隆寺式伽藍配置」の貴重な寺院跡です。1980年代から発掘が開始され、非常に多くの優れた出土品が発見されたことから、海会寺跡は国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されました。さらに研究を進め出土品を展示するため、1997年に古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターが遺跡に隣接して建設されました。

海会寺跡では、見学できるよう整備された遺跡が史跡広場として無料で公開されており、金堂基壇や講堂基壇、塔基壇、回廊跡、豪族の屋敷跡などを自分の足で踏みしめて間近に見ることができます。特に講堂基壇と塔基壇は、約2m盛り上げて整地された当時の土台状況が全面的に復元展示されており、その壮大な規模や配置を手に取るように実感できます。地形的には小高い丘の一番高い場所を平らにして周囲から望める形にしており、当時は非常に目立つ建物がここにあったことが想像されます。

海会寺の伽藍配置は、中門から入って東側に金堂、西側に五重塔、北側に講堂があり、周囲をぐるっと回廊が囲み中門と講堂に接しているというもので、まさに法隆寺を小さくしたような配置構造の寺であったことが分かります。新しい研究成果に基づき、海会寺は法隆寺よりも先に建てられたとする説も有力です。

版築による整地層展示穴に入る

版築による整地層展示穴に入る

写真:菊池 模糊

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海会寺跡の発掘調査により、壮大な伽藍の各建築年代も明らかになりつつあります。まず650年ころ丘の中央部を削って金堂が建てられ、次に五重塔の建設がはじまり、最後に講堂や回廊がつくられたようです。その際、金堂の西側は傾斜で低かったため大規模な整地をして平らに盛り土されました。整地には、粘土と砂を交互に積み重ねて突き固める「版築」という方法が用いられたことが判明しました。

現在、回廊の西側部分に、版築の様子がわかる整地層展示トンネルがあり、見学できるようになっています。中に入ると土層を垂直に切ってあり、透明なガラスを通して、粘土と砂の交互層が一目瞭然です。1300年以上経ったものとは思えません。このように、しっかり整地されているため、高い五重塔などが上に建てられたのです。この整地工事は、多くの労働力を必要とし、当時としては大規模な土木事業だったようです。この見学トンネルは、回廊外周の分かりにくい場所にありますので、見逃さないように注意してください。

21世紀の今でも、この海会寺跡は崩れずしっかりと残されており、版築による基礎工事がいかに強固なものであったかが分かります。古代の人々の技術力の高さと真面目さを思い知らされる場所といえるでしょう。

一岡神社にお参りする

一岡神社にお参りする

写真:菊池 模糊

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現在、海会寺跡の金堂基壇の上には、半分覆いかぶさるように一岡神社(いちおかじんじゃ)があります。この神社は創建年代等は不明ですが、伝承によれば崇峻天皇5年(592年)に厩戸皇子(聖徳太子)が海会寺を建立した際に、その鎮守の海営宮として一岡神社を定めたとされます。海会寺跡の発掘による調査結果と年代的にも整合する可能性があり、海会寺と深く関連しているようです。海会寺は平安時代に火事で焼失し荒廃しましたが、熊野詣が盛んになると神社が崇敬を集めるようになり、やがて熊野九十九王子の厩戸王子社を合祀し、和泉国日根郡の大社「祇園さん」として親しまれてきました。古代史の謎がからんだ非常に興味深い由来の神社です。

神社の後ろには鎮守の森が広がっており、夏でも涼しい森の中の散策路もあります。さらに、鎮守の森横の広い空き地には、海会寺に関係する豪族居館跡の官衙風配置の遺跡があり、大きな正殿や脇殿、柵の跡を見学することができます。また、この付近では、瓦を焼いたと考えらる登り窯と平窯の跡がいくつも発掘されており、海会寺が建立された後もそのメンテナンスのため、瓦窯が操業されていたことが確かめられています。寺や神社・豪族館など、古代の泉南の文化の中心地として、このあたりが長く栄えていたようです。

最近は、一岡神社に合祀されている知恵の神様の丸い茅の輪くぐりが注目されています。いわゆるパワースポットとして、頭が良くなる願いをこめて、学業成就祈念の受験生などがお参りにくるようです。

古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターを見学する

古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターを見学する

写真:菊池 模糊

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海会寺跡と道を挟んだ向かい側に、古代史博物館・泉南市埋蔵文化財センターがあります。一階の泉南市埋蔵文化財センター部門では、出土品の調査研究と記録保存が行われており観光客は通常は入れませんが、二階の古代史博物館部門は一般開放されており、無料で誰でも見学できます。(写真参照)

二階の古代史博物館部門フロアのロビーには、海会寺の五重塔の頂上にあった相輪(そうりん)の3分の1スケールの復元模型があり、金色に輝いています。これは発掘調査により得られたデータに基づき細部まで忠実に再現された壮麗なものです。海会寺跡の俯瞰立体模型もあり、遺跡の全容を知ることができます。

また同フロアの特別展示室には、海会寺跡で発掘され重要文化財に指定されたもののうち優品約100点が、常設展示されています。この特別展示室のものは、レプリカではなく全て発掘された本物であることが素晴らしいです。貴重な品々ですので、心ゆくまで時間をかけて見学してください。

この古代史博物館からは、海会寺跡と一岡神社を一望することができます。サロンの椅子に座って、この目の前に、古代文化の象徴ともいうべき巨大な寺院が建っていたことを想像してみてください。往時の雰囲気を偲び、なぜここに海会寺が建てられたのかという古代史ミステリーの謎解きに挑戦されてはいかがでしょうか。

軒丸瓦と三尊甎(セン)仏に驚く

軒丸瓦と三尊甎(セン)仏に驚く

写真:菊池 模糊

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古代史博物館の特別展示室で最も重要なものが、「吉備池廃寺式」軒丸瓦です。軒丸瓦とは、古代寺院の屋根下部の軒部分を飾る丸い瓦です。「お寺の顔」といってもいい装飾的な文様が施されたもので、建築当時の年代・技術由来を実証できる資料となります。

海会寺金堂に使われた軒丸瓦は蓮の花を様式化した単弁蓮華文で、吉備池廃寺や四天王寺で使われた軒丸瓦と同范関係すなわち同じ木型で作られた瓦なのです。吉備池廃寺は、日本最初の勅願寺である百済大寺であるとされており、九重塔のある日本最大級の寺院であったようです。この百済大寺という、天皇によって建立された国家第一の寺の瓦とほぼ同じものが使われているということから、海会寺が当時の都中央権力ときわめて密接な関係があったことが分かります。

また、貴重な仏のレリーフである三尊セン仏も発掘され展示されており、小さいですが美麗なものです。この三尊セン仏は、明日香の橘寺で最初につくられたもので、各地の古代寺院では橘寺のセン仏を粘土で型取り「踏み返し」という技法で複製化してから焼成・彩色しました。海会寺の三尊セン仏もそのひとつで、五重塔の内壁面に貼る形で飾られていたと思われます。

その他にも、土製如来坐像や独尊セン仏、芯に粘土を塗り重ねてつくられた塑像、相輪の銅製品、風鐸、平瓦、熨斗瓦、須恵器、木樋なども展示されています。説明パネル類も平易な文章で詳しく書かれており、古代の寺院の実像を深く知ることができます。

最後に

海会寺がつくられる直前におこった大化の改新は、天皇を中心とする中央集権国家をめざす政治的改革でした。孝徳天皇は新しい政治を行うため、飛鳥の地を離れ、難波(現・大阪市)に都を移します。そして、国家統治の根拠地として「畿内」の範囲を定め、政治基盤の強化をはかったのです。海会寺は、まさにその当時の「畿内」の南西端にありました。畿内と紀伊国を結ぶ南海道の重要地点だったのです。ここに、当時の最新技術を駆使して、先端文化の象徴であった大きな仏教寺院がつくられたのです。さぞ壮大で他を圧する存在感を放っていたことでしょう。

実際に海会寺をつくった人や、詳細な経緯は判明していません。おそらく、この泉南の地を支配し都中央と結びつきの強かった豪族が建設したと推測されるだけです。まだまだ、多くの謎が残されており、今後の調査研究の成果が待たれるところです。

海会寺跡や古代史博物館に展示されている出土品によって、私たちは古代日本の最初期の仏教寺院の面影を知ることができます。律令国家のシンボルから信仰の対象となり、やがて歴史の彼方に忘れ去られた存在となった海会寺・・・ぜひ、この遺跡が織りなす古代の歴史ロマンの世界を見に来てください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/07/20 訪問

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