本島でまず見ておきたいのが塩飽勤番所です。塩飽水軍は軍事・経済において非常に重要だった備讃瀬戸を拠点としながら、一級品の航海術・造船技術も有していた水軍であり、塩飽水軍を得た者が瀬戸内海の制海権を得るとされるほどの存在でした。
この塩飽水軍を味方に付けるべく自治権を認める朱印状を発行したのが織田信長です。この信長の方法が秀吉や家康にも継承され、幕末まで塩飽の人々は自治権を有することになりました。すると、島の政治は自らでしなくてはなりません。そこで島民たちを束ねる年寄が選ばれ、彼らが交代で政務を執り行うようになりました。この政務の場所が塩飽勤番所になります。
現在の建物は、島民が大いに関与した咸臨丸がアメリカに渡った同年の万延元(1860)年に新築されたもので、明治以降は村役場として、その後は丸亀市役所本島支所として昭和47(1972)年まで使用されていました。朱印状、咸臨丸水夫の遺品など館内で展示されている品々も興味深いものばかりです。
笠島地区は本島の北東部に位置します。北に海が開け、三方を丘陵に囲まれた傾斜地に110棟余りの家が建ち並んでいます。北側の港は中世以降江戸時代まで塩飽水軍や塩飽廻船の拠点となった場所でした。とりわけ塩飽水軍にゆかりの深い集落とも言えそうです。
通りは道幅が狭く、丁字路や曲がり角、湾曲させるなどして見通しが効かないようになっています。笠島地区は、昭和60(1985)年に島嶼部としては初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
江戸後期から昭和初期の建物が多く、ほとんどが平入りの町屋建築なのが特徴です。花崗岩の切石や石垣で地面を水平にしている様子や、腰格子(下部にのみ格子が付いているもの)の窓、出格子が独特な町並みにしています。家々を築いたのは島自慢の船大工たち。ここで見られるのは塩飽の船大工の作品群とも呼べるのです。
本島中央部の山頂に鎮座するのは、地元の人たちに「山寺さん」と呼ばれ親しまれている正覚院です。正覚院は天平年間(729〜749)の開基で、塩飽諸島の総括寺院となっています。
ここで必見なのは寺務所玄関の木彫です。懸魚や向拝の欄間、木鼻などに鳳凰や龍などの凄まじい透かし彫りが施されています。これほどの木彫には滅多に出合えません。作者はやはり塩飽の船大工。人物は橘貫五郎と考えられており、善通寺五重塔建造の棟梁でもありました。山に登ってまでも一見の価値はあります。
また、本島は瀬戸内国際芸術祭にも参加しています。瀬戸内国際芸術祭とは瀬戸内の島々に現代アートを制作・展示するもので、2010年に第1回、2013年に第2回、そして2016年で第3回目となる新進気鋭のイベントです。本島は2016年の秋季(10月8日〜11月6日)に参加予定で、こちらに合わせても良いでしょう。
本島港の付近に立つ観光案内所のすぐそばには咸臨丸渡米150周年の顕彰碑が立ち、その脇に例の芸術作品の一つがあります。赤錆にまみれた鉄の廃材で、咸臨丸の3本のマストを備えた帆船の姿をつくり上げたもの。タイトルは「Vertrek『出航』」。よくできており、本島の歴史を顕彰する心が視覚的に伝わってくる実にいい作品です。
これまで塩飽水軍やこれに派生した船大工たちに関連する場所を紹介してきました。しかし、備讃瀬戸を見渡す場所に浮かぶ本島は、現在、備讃瀬戸を南北に貫く瀬戸大橋が横一文字に見渡せるビュースポットになっています。島の東側であれば、あらゆるところから長大な瀬戸大橋を眺めることができます。
周辺を見渡せば、いくつもの島影が望め、海を眺めていれば様々な船の往来を眺めることができます。本島はこうした景色もみどころです。
いかがだったでしょうか。備讃瀬戸を古くから見続けてきた塩飽諸島・本島。海のプロフェッショナルとして瀬戸内海のみならずあらゆる海の様子の移り変わりを見続けた島民たちは、塩飽の誇りを胸に町並みの復元を果たしたり、過去の歴史を伝えようと資料を保存展示したりする一方で、現代アートの芸術祭に参加するなど柔軟に変化しようともしています。温故知新の心を大切にしたいと思わせてくれる旅がここにはあります。
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