自慢の杉と石垣の技芸光る美しき日向の小京都〜宮崎・飫肥〜

自慢の杉と石垣の技芸光る美しき日向の小京都〜宮崎・飫肥〜

更新日:2016/07/26 12:57

宮崎県の南方、日南市の一地区にあたる飫肥は、薩摩の島津氏と日向の伊東氏が壮絶な取り合いをし、伊東氏が獲得・立藩に至った飫肥藩5万1000石の城下町です。昔からの町並みをよく留め、昭和52(1977)年に地方における小規模な城下町の典型として、武家町を中心とする地域が,九州で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定。現在は“九州の小京都”とも名乗ります。今回は、そんな飫肥の見どころのご紹介です。

飫肥の実業家の貴重な明治期邸宅「旧高橋源次郎家」

飫肥の実業家の貴重な明治期邸宅「旧高橋源次郎家」
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かつての城下町の南側の通りにあたる本町商人通りに面し、白漆喰に下見板張り、虫籠窓・瓦屋根付きの贅沢な塀で囲まれているのは旧高橋源次郎家です。建築年代は明治中期。主屋の屋根は寄棟造で、飫肥地区においてそれまで茅葺きであった民家が瓦葺きへ転換していく初期の建築として価値が高い存在であることから国登録有形文化財となっています。

主屋の座敷の襖や板戸には中国の賢人や孔雀、鶴などが描かれており、廊下や風呂場の壁が黒漆喰なのも独特です。とりわけ、タイル張りの浴槽に立派な折り上げ格天井が設えられている風呂場は見逃せません。

白漆喰の迫力ある建築「商家資料館」

白漆喰の迫力ある建築「商家資料館」
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通りには、高橋源次郎が所有して公民館のような役割を果たしていた商家資料館もあります。白漆喰の土蔵造りで小さな2階部分を持つ2階建てではあるが、急勾配の屋根を擁した巨大な建物からは合掌造りを彷彿とさせるものがあります。

明治3(1870)年に山林地主によって建てられたこの建物の用途はやはり商売。中に入ると土間がL字型になって奥まで続き、正面には帳場。この巨大建築は木造なのですが、木材は全て飫肥杉を使用しています。飫肥杉は油分が多く腐りにくいことが自慢です。天井を見上げると、赤茶色の飫肥杉が梁となってこの建物をしっかりと支えており、見ものです。

なお、展示物は度量衡器を中心とした商売道具が多数、壁に沿って設けられた陳列棚に並べられており、貨幣制度の確立や度量衡にまつわる詳細な解説も見られます。

飫肥ならではの町並み「大手門通り」

飫肥ならではの町並み「大手門通り」
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さて、そろそろ本町商人通りから離れて飫肥城に向かいましょう。ここから飫肥城に向かってまっすぐ延びるのが大手門通りです。薬医門を備えた家々の塀は石垣。しかも切り込み接と呼ばれる隙間のないしっかりしたもので、見た目にも美しいです。

こうした様子が城の前まで続いており、大手門通りと交差する小路の景観も上等です。古く無さそうな石塀には、こぶ出しの技法が用いられ石垣ともよく馴染むようになっています。茶などの生垣も風情が良いです。

飫肥藩は伏見城、江戸城、駿府城、名古屋城の御普請役を幕府から課せられており、この際に石垣の技術が飫肥の地にもたらされたのでしょう。その後、大地震が発生しており、これによる損傷を良い機会と城下でも最新の石垣の技術を実践して守りを堅牢にしようと藩が築いたのではないかと、想像が膨らみます。

歴史の変遷を感じさせる「飫肥城跡・飫肥城歴史資料館」

歴史の変遷を感じさせる「飫肥城跡・飫肥城歴史資料館」
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ようやく飫肥城に入城します。空堀に架かる土橋の先に堂々とした櫓門の大手門。大手門の虎口は兵を隠す控え塀でクランク状の内桝形虎口を成しています。石垣はこちらも切り込み接。なお、城内で見られる切り込み接は貞享3(1686)年の比較的新しい石垣です。

飫肥では寛文2(1662)年に大地震が発生し、復旧間もない延宝8(1680)年に再び大地震に襲われました。この地震のために城の大規模改修が幕府に特別に認められ、縄張から大きく改造されたのです。

本来の飫肥城はシラス台地を大きな空堀で区画した南九州型の縄張でした。大手門を抜けて左手、西に松尾の丸、その北に本丸、本丸の東に中の丸、今城と続き、さらにその北にも独立した曲輪がいくつも存在していました。地震後の改修によって前述した中の丸と今城が削平されて石垣に囲まれた場所が新たな本丸となりました。

現在、本丸は飫肥小学校が大部分を占め、傍らに飫肥城歴史資料館が立ってます(写真奥)。飫肥城図や飫肥城下の地図、飫肥城の地震被害古図、飫肥藩祖・伊東祐兵(すけたけ)着用の甲冑なども興味深く、長曾禰虎徹と並んで新刀期の東西の双璧と謳われた刀工の作である「藤原国広」の刀、“大坂正宗”と称される「井上真改」の脇差など名刀も揃います。

杉木立が支配する「飫肥城跡・旧本丸」

杉木立が支配する「飫肥城跡・旧本丸」
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そして、本丸の北西にそれ以前の本丸があります。度重なる大地震によって地割れが発生したため御殿が移転されてしまったかつての本丸は旧本丸となりましたが、曲輪としては健在で南九州型の縄張の特徴をよく示しています。

切り込み接の優れた石垣は、近世の作とは思えないほど整然とした桝形虎口を造りあげている一方で、苔を纏って1世紀以上昔のものであることを納得させるような閑雅な風格も漂わせています。虎口を登りきると、きれいに削平された地面からは杉が生え、各々が好き勝手に背を伸ばさんとしています。今や旧本丸は杉木立が市民権を得ているような具合で、人工と自然が交わった、どことなく不思議な空間です。

飫肥は旅のテーマに事欠きません

いかがだったでしょうか。「山の中でも 日向の飫肥は 杉で名高い 城下町」と野口雨情にも歌われた飫肥杉。そして、城や城下町に見られる切り込み接の石垣。この飫肥における2大特徴を中心にして、紹介させていただきました。

この他にも飫肥には、伊東氏と島津氏との戦いの歴史や、飫肥が輩出した外交官・小村寿太郎のこと、文人墨客の訪れも多く、当地ならではの食もあります。小ぢんまりとした町ながらも旅のテーマには事欠きません。知的好奇心を備えて、いざ飫肥の町を歩いてみましょう。期待以上に楽しませてくれるはずです。

掲載内容は執筆時点のものです。

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