写真:やまざき にんふぇあ
地図を見る戊辰戦争(1868年〜1869年)の時、会津藩は鶴ヶ城(会津若松城)に籠城し新政府軍と戦いをくり広げていました。10代の男子で構成されていた白虎隊も、会津藩の苦戦にともない出陣を命じられますが、あえなく退却することとなり飯盛山に逃げのびます。
飯盛山山頂へは、ほぼ直線の石段を登っていくことになります。全部で183段ありますが、距離はそこまでないため健脚な方なら10分もあれば山頂までたどり着けます。お年寄りや小さいお子さんを連れている方は、階段右側にあるスロープコンベアを利用すると歩かずに山頂まで行くことができます。
写真:やまざき にんふぇあ
地図を見る飯盛山には戸ノ口堰洞穴という洞穴が開いており、ここも白虎隊ゆかりのスポットとして知られています。
1623年、肝煎(江戸幕府の職制の1つ)だった八田内蔵之助という人物の手により、猪苗代湖から会津盆地に水を引くために水堰が作られました。多額の費用がかかり一時藩からの援助がとめられても私財を投じて完成させたといわれています。その後1832年〜1835年にかけて大改修を行い、今の形となりました。
白虎隊は退却の際戸ノ口堰洞穴を利用します。ですが、山を登った白虎隊を待っていたのはあまりにも衝撃的な光景でした。
写真:やまざき にんふぇあ
地図を見る白虎隊が飯盛山山頂から見たのは、黒煙を上げる鶴ヶ城でした。守るべき城が落ちたことを悟った白虎隊は、飯盛山山頂で自刃し短い生涯を終えることとなります。
ところが実際は、鶴ヶ城は燃えていませんでした。城の近くの建物の炎上を見間違えただけだったのです。会津藩が降伏し戊辰戦争が終わった後も、白虎隊の遺体は新政府軍の命令によりしばらくの間野ざらしにされ、哀れに思った山主の飯盛正信や吉田伊惣次がこっそり仮埋葬するも、見つかり厳しく処罰されました。
山頂からは今でも鶴ヶ城が見えます。当時は高い建物などなかったため、今よりも見つけやすかったでしょう。とはいえ、豆粒ほどの大きさでしか見えない鶴ヶ城の近くで別の建物が燃えていたら、勘違いするのも仕方ないかもしれません。
写真:やまざき にんふぇあ
地図を見る勘違いにより悲劇的な最期を遂げた白虎隊。山頂にはそんな白虎隊19人の墓があり、今でも線香を手向けに来る人があとを絶ちません。
ところで、自刃したにも関わらずなぜ「白虎隊は鶴ヶ城が燃えていると勘違いした」などという、当事者でしか知りえない話が残っているのでしょうか。実は白虎隊の中で1人だけ、生きていた人物がいるのです。
写真:やまざき にんふぇあ
地図を見る壮絶な最期を遂げた白虎隊ですが、1人だけ一命を取りとめた人物がいました。彼の名前は飯沼貞吉。死にきれず苦しんでいたところを発見され、蘇生されます。彼の口により白虎隊の悲劇が世に伝えられることとなります。
自ら当時のことを語ることは少なく、自決をしようとしたこともあったといわれますが、後に東京郵便電信局に勤め日本の電信電話の発展に貢献するなど、生涯精力的に活動を続けました。
白虎隊の墓から少し離れたところには彼の墓の他に、彼の偉業をたたえ弔う石碑が建てられています。
戊辰戦争や白虎隊、そしてこの時代に生きた様々な人々についてさらに詳しく知りたい方は、飯盛山だけでなく鶴ヶ城を訪れると良いかもしれません。
鶴ヶ城では当時の戦争の背景や関わった人物について掘り下げた展示をしており、ここで起こった戦争をより生々しく感じることができます。
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(2024/4/20更新)
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