仏教音楽が伝わる比叡西麓の幽邃境で愉しむ名庭〜京都大原〜

仏教音楽が伝わる比叡西麓の幽邃境で愉しむ名庭〜京都大原〜

更新日:2016/07/07 09:17

京都市北辺の山懐に抱かれた山里、大原。この地は最澄より天台宗にもたらされた声明(しょうみょう)と呼ばれる仏教音楽のメッカです。キリスト教で言うところのグレゴリオ聖歌に当たるもので、長和2(1013)年、大原に移り住んできた寂源がこの地の来迎院と勝林院を念仏道場とし、大原流なる声明道が興隆されました。そして、この両院を統管していたのが三千院です。今回は大原の名庭を声明の里の面影を添えてご紹介します。

三千院のことと、優美な小庭「聚碧園」

三千院のことと、優美な小庭「聚碧園」
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まずは、大原の寺院群の中核である三千院から。三千院の起源は、天台宗の宗祖・最澄が延暦年間(782〜806年)に比叡山の東塔南谷の梨下に草庵を建立したのが始まりとされています。そののち、平安末期に天台座主を多く輩出する門跡寺院となり、戦乱などを経て現在の地に移りました。

大原バス停からそのまま東に向かって三千院を目指すと、川に沿って歩くことになるでしょう。この川の名前は呂川で、三千院の南縁を流れています。また、北縁を流れる川は律川。この2つの川の名前は、音階を示しています。当時、唐で用いられていたのが「呂」旋法という音階であり、日本で用いられていた音階が「律」旋法でした。こうした名前の川が流れているところに仏教音楽の里を強く実感します。

さて、三千院に入りましょう。受付を済ませ、中書院を抜けて客殿へ。こちらが聚碧園です。自然の美しさに江戸期の茶人・金森宗和が感動して手を加え、庭園にしたものと伝わります。右方はすぐ下に飛び石が打たれ、池に注がれる小川の流れや低木の奥に樹木が迫る姿…、鬱蒼とした等倍の自然観が感じられます。茶庭らしい技法です。

対して、左方は日差しが入り込んで刈込と庭石が点在し、最も奥にそびえ立つ三重の石燈籠を引き立たせているような具合になっており、「見立て」を用いる王道の日本庭園らしい表現が感じられ対照的です。なお、池の水は律川を水源としているようです。

石琴が声明修行を伝える「実光院」

石琴が声明修行を伝える「実光院」
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三千院の山門から北に向かってすぐのところに実光院があります。天台座主第3代・円仁による開基で勝林院の子院に当たり、声明を修行する学僧が住む宿坊として建てられたものです。

客殿の欄間には、江戸中期に狩野派の絵師によって描かれた三十六詩仙画像の模写。本尊である小さな地蔵菩薩座像と毘沙門天像、不動明王像を安置する脇に、声明の音律の確認のために用いるサヌカイト製の石琴をはじめさまざまな楽器が見られます。

実光院では2種類の庭園が楽しめます

実光院では2種類の庭園が楽しめます
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さて、実光院の庭園です。客殿の南には、松で鶴、島で亀を表現した池泉観賞式庭園「契心園」が望めます。西は回遊式庭園ですが、こちらに面する側のそばに花木、庭石、石灯籠を置き、まっすぐに伸びる植え込みの木々がこちらから望める庭園部分を完結させていますが、これの途切れた右には高野川を隔てて西に聳える翠黛山(すいたいざん)の山肌が景に入り込み、西も充分に鑑賞にも優れた庭園になっています。写真はこちら西側の庭園です。

回遊式庭園の自慢は初秋から翌春にかけて咲く不断桜ですが、多彩に植えられた山野草が絶えず花期を迎えており、四季折々に楽しむことができます。実光院の入口に見頃の花が紹介されているので、歩きながら探してみると良いでしょう。

里の風情が味となる額縁庭園「宝泉院」

里の風情が味となる額縁庭園「宝泉院」
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実光院からさらに北進すると、声明道場になった勝林院が鎮座します。次にご紹介するのは、この勝林院の隣の宝泉院です。こちらも実光院同様、声明修行の僧侶たちの宿坊としての役割を果たした勝林院の子院です。こちらは、近江富士をかたどった、きれいな山形をした五葉松の大木や、落城した伏見城の遺物を天井の材に用いた血天井でも知られます。

こちらの庭園は“立ち去りがたい”の意を示す「盤桓園」が正式名称ですが「額縁庭園」とも呼ばれます。客殿より柱と柱の空間を額に見立てて鑑賞することを良しとするためにその名があるようですが、こちらに限らず、観賞式庭園は概して部屋の奥に身を引いて観賞すると良いでしょう。

そして、この宝泉院も大部分を占める竹林とそのわずかな隙間から見える山肌や山里の風情が楽しめる西側、五葉松の巨木が主役の南側とで風景は全く異なります。観光客で賑やかな三千院から離れ、人出も少ないです。静けさが漂う中、美景を心ゆくまで堪能しましょう。

こちらも歌に関係あり「寂光院」

こちらも歌に関係あり「寂光院」
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大原の寺院で特に観光客の訪れが多いのが三千院と、寂光院です。父・用明天皇の菩提を弔うため聖徳太子が建立したと伝わりますが、歴史上に現れるのは文治元(1185)年に建礼門院徳子が寂光院に閑居してから。女院寂後の寂光院は女人寺として建礼門院の遺跡を大切に守り伝えて今日に至っています。写真は建礼門院の庵室の跡地になります。

『平家物語』に大原が登場するのは最終章です。文治2(1186)年、後白河法皇は建礼門院が大原の里に隠れ住んでいることを知り、やって来ました。庵室は雨や露をどうやって凌いでいるのかと思えるほど粗末なもので、部屋は1丈四方の仏間と寝所のみ。あまりのみすぼらしさに法皇は涙を押し拭ったそうです。

建礼門院は法皇に語ります。清盛の娘として何不自由ない身分に生まれたこと、都落ちで食事もままならない海上生活に餓鬼道の苦しみを覚ったこと、一の谷の敗戦で一門の運命は尽き果てたと感じたこと、阿鼻叫喚の壇ノ浦の戦場のこと、抱かれた我が子が海に沈んでゆく姿…。今は先帝、御子、平家一門を弔いながら朝な夕なに勤行に勤しむのが後世菩提のための悦びと聞き、再び法皇は涙を拭うのです。

『平家物語』は盲目僧の琵琶法師が語り歩いたことで全国に知れ渡りました。三千院と寂光院は関係がありませんが、音楽に関係するという点で不思議な因縁を感じます。

大原ならではの味があります

いかがだったでしょうか。大原は都から離れ、鞍馬や比叡山よりも北に位置する山奥の地。歴史の教科書にも登場する争乱に関連しながら焼失と再建を繰り返し、宗教、政争などとも結びついた歴史の糸が複雑に絡み合う京洛の社寺とは異なり、与えられた一つの使命を守り伝える寺院の姿があります。

四季折々の姿が楽しめる名庭たちとともに、大原で積み重ねられてきた歴史にどっぷりと浸かってみて下さい。京洛とはまた少し違った京都旅の愉しさにめぐり逢うことでしょう。

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