1300年前の国際都市ってどんな都市?奈良「平城宮跡資料館」

1300年前の国際都市ってどんな都市?奈良「平城宮跡資料館」

更新日:2016/08/04 15:38

花月 文乃のプロフィール写真 花月 文乃 地域文化・民俗文化リサーチャー、グラフィックデザイナー、旅行ライター
平城宮は、1998年に古都奈良の文化財として考古遺跡としては日本で初めて、世界遺産登録されました。初めて訪れた人からみると、だだっ広い野原に中国風の建物が立っているようにしかみえないかもしれませんが、およそ1300年前に日本で栄えた国際都市・平城京の跡地なのです。

そんな平城京跡からの出土品などから、その当時の人々の生活をかいまみることができるのが、近くにある平城京跡資料館。入場は無料です。

海を渡った陶磁器たち。国際交流が生みだした“奈良三彩”

海を渡った陶磁器たち。国際交流が生みだした“奈良三彩”

写真:花月 文乃

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奈良時代は、遣唐使が中国の唐に派遣され、唐だけでなく渤海や朝鮮半島の新羅とも盛んに交流をしていました。出土品には、これらの国からもたらされたであろう新羅や渤海の土器、唐三彩の枕の陶片などを目にすることができます。

唐三彩は、緑・黄・青などの釉薬かけた陶磁器ですが、この磁器をモデルに日本では奈良三彩が焼かれました。これは、当時の国際交流が生みだした成果ともいえます。

他にも、平城京内には約7,000人の役人が働いており、普段の生活で使われていた食器や台所用品が出土しています。貴族や皇族は漆塗りの食器を使い、それ以外の人たちは土師器や須恵器の器を使いました。お箸や杓文字などの道具もみることができ、当時の生活風景をしのぶことができます。

遣新羅使節団と天然痘の流行

遣新羅使節団と天然痘の流行

写真:花月 文乃

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盛んな国際交流がもたらしたのは、様々な文物だけではありませんでした。735年に北九州で大流行した天然痘が北上し、737年に今度は平城京で再び大流行します。多くの人が疫病に倒れ、亡くなりました。感染源は、新羅に派遣された遣新羅使節団が帰国とともに天然痘を持ち込んだと考えられています。

当時の人たちはこういった災いは、疫病神や鬼神によるものだと考えました。平城京からは、様々なまじないや呪いの道具がみつかっています。人々は迷信を信じ、祈祷やまじないが盛んに行われていたことがうかがわれます。

奈良時代のおまじないグッズ

奈良時代のおまじないグッズ

写真:花月 文乃

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顔をかいた土器は、人面墨書土器といわれ、疫病の流行を鎮めるおまじないに使われてといわれています。煮炊き用の土師器の球形の甕に、鬼神や疫病神をかき、それを水に流すことで、都から鬼神や疫病神を追い出すことができると信じられていたようです。

このことから分かるように、人面墨書土器は平城京の道路の側溝や運河跡から数多く出土しています。鬼神にしてはユーモラスな顔もかかれています。

土でできた馬も、人面墨書土器と同じく道路の脇の溝や運河から出土することが多く、水に関係する祭事に使われたと思われています。古代の人たちは、疫病神は馬に乗って移動すると考えました。土馬に、疫病神を乗せ水に流すことでその災難を一緒に流したという説と、雨乞いに使われたという説があります。馬や牛は雨乞いの際、生贄として捧げられていたのを、土でできた馬で代用するようになったと思われます。

他にも、木の板でできた呪いの人形などの出土品もあります。

百済からの文様の伝来。瓦に見る装飾の形

百済からの文様の伝来。瓦に見る装飾の形

写真:花月 文乃

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瓦の文様と年代コーナーでは、時代ごとの軒丸・軒平瓦の文様を見ることができます。平城京から出土した瓦文様は、約600種類あります。寺院の瓦などが展示されています。これらの軒丸瓦を見ると、蓮の文様をしていることに気がつくと思います。

日本で最初の瓦葺建物は、588年に建立された明日香村の飛鳥寺だといわれています。飛鳥寺の軒丸瓦も、蓮の文様をしています。この瓦は、朝鮮半島の百済より招いた、瓦博士が百済の造瓦技術を導入してつくったといわれています。当時の百済の瓦の文様は、蓮で、造瓦技術と共に、蓮文様も伝わったと思われます。

それから時代をへて、平城京の瓦の文様は、多様な展開をみせるようになりましたが、依然として蓮文様の瓦は主流として親しまれていました。

国際交流がもたらした生活文化と国際都市、平城京

国際交流がもたらした生活文化と国際都市、平城京

写真:花月 文乃

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平城京には、遣唐使と共に唐に住んでいた僧侶達が訪れたといいます。その出身国は、唐(中国)、天竺(インド)、林邑(ベトナム)、波斯・胡国(イラン)、崑崙(インドシナ・インドネシア)と多様な文化背景を持つものでした。

また、平城京はシルクロードの最終地点としても知られています。写真では遠くにみえる太極殿に、日本全国や海外からのお土産が元旦の朝賀の席にはずらりと並んだことが予想されます。

現在は、交通機関やインターネットの発達により、飛行機で気軽に海外旅行にいったり、海外の情報を入手することができますが、当時の遣唐使達の移動手段は船で、その船も旅の途中で難破して帰国することができなくなるかもしれないという、命がけの危険な旅でした。

当時、海を渡った遣唐使の中には、2度と日本の土を踏むこともできず、故郷から遠くはなれた土地で亡くなったものもいます。

平城宮跡資料館で平城京をもっと知ろう!

平城宮跡資料館からは、古代に平城京で生活をしていた人たちの様子と、現代にもひけをとらないような国際色豊な都市の姿を知ることができます。

1300年も昔に、この広大な地を様々な国の人たちが行きかっていたことや、海の向こうにかけた遣唐使たちの志を想像すると、始めは何もない野原だと思っていた場所にも、新たなイマジネーションがわいてきますね。

平城宮跡資料館は入場無料なので、ぜひ訪れてみてください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/07/19 訪問

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