写真:澁澤 りべか
地図を見るクラクフ旧市街の南東、ユダヤ人街であるカジミェシュ地区を越えてヴィスワ川を渡った「リポワ通り4番地」に、かのオスカー・シンドラーが経営していたホウロウ工場(Oskar Schindler’s Factory “Emalia”)があります。
シンドラーはここでユダヤ人を雇用し、従業員リスト(実際には働いていない人も含まれていた)、いわゆるシンドラーのリストを作って彼らが絶滅収容所に送られないようにしました。
外観は当時の面影をとどめており、窓の一部にはシンドラーによって命を救われた人々の写真が飾られています。
戦後65年がたった2010年、工場は内部のリフォームを終え「クラクフ歴史博物館」の1つとして公開されました。開館記念式典には当時この工場で働いていたユダヤ人たちが、世界中から再びここに集いました。
写真:澁澤 りべか
地図を見る博物館では「ナチス占領下のクラクフ 1939〜1945」という常設展示を見ることができます。タイトル通り、ナチスがクラクフに侵攻してから終戦までの、クラクフ市民やユダヤ人たちの生活ぶりが、3フロア22部屋にわたってリアルに再現されています。
写真パネルや戦車の展示、のぞき窓のような仕掛け、スタンプコーナーがあり、また壁のあちらこちらからは多くの人々の証言が聞こえてきて、戦時中の歴史を追体験できるように工夫が凝らされています。
写真:澁澤 りべか
地図を見る町中の写真店や美容院、駅の再現だけでなく、クラクフ郊外にあったプワシュフ強制収容所の再現、ゲットーを囲んでいた壁の実物大の展示、狭いゲットーでのユダヤ人のつつましやかな暮らしの再現なども見られます。
シンドラー関係だけでなく、占領下のクラクフの社会状況全般がわかる展示となっており、学生の団体も多く見学に訪れるので、狭い通路はかなり混雑しています。
写真:澁澤 りべか
地図を見る約1200人のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラー。彼はチェコ出身のドイツ人で、1939年のナチスによるクラクフ侵攻に乗じ、金儲けができないかとクラクフにやってきた実業家でした。
クラクフでのユダヤ人迫害がひどくなると、安全な職場を確保したいユダヤ人たちはシンドラーに1つのホウロウ工場を買い取るよう頼みます。資金は自分たちが用意する、そのかわりユダヤ人を雇用してくれと。それがこの工場です。
1944年には、シンドラーの工場のユダヤ人従業員は1000人を超えます。その中にはプワシュフ強制収容所からシンドラーが引き取ったユダヤ人も含まれていました。シンドラーは彼らのために工場内にバラックを建てて住まわせていたのです。
1943年、ソ連の反撃が始まりポーランドにせまると、ナチスはポーランドの強制収容所を解体する方針を固め、ユダヤ人は絶滅収容所に送られて殺害されることになりました。
そこでシンドラーは鍋や食器などのホウロウ容器から軍需品の生産に切り替えて、ここで働くユダヤ人たちが戦争に貢献していることを強調。リストアップされた約1200人の従業員とともに工場を自分の故郷であるチェコのブリンリッツに移転させることに成功しました。移転から半年後、ドイツは戦争に敗れ終戦を迎えました。
写真は博物館の最上階に作られたシンドラーのオフィスの再現です。この部屋には当時工場で作られていたようなホウロウ容器を積み重ねた現代アートの展示もあり、当時をしのばせます。
第二次大戦では、ポーランドにいた350万のユダヤ人の9割が殺されました。そして1939年の夏、クラクフにいたユダヤ人のうち約4割がこの工場のおかげで命を救われたといわれています。
戦後は不遇のうちに亡くなったシンドラー。その英雄的行為の証である工場をぜひ訪れてみてください。映画『シンドラーのリスト』を見てから行くと、感激もひとしおです。
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(2024/4/19更新)
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