写真:乾口 達司
地図を見る瑞泉寺(ずいせんじ)は、文禄4年(1595)7月、 天下人・豊臣秀吉から謀反を疑われ、最終的に切腹することになる関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の菩提を弔うために建立されました。
高瀬川が流れる三条・木屋町界隈といえば、京都随一の繁華街が広がる界隈。日夜、多くの人が付近を往来していますが、そんな高瀬川沿いに瑞泉寺はひっそりたたずんでいます。この界隈を歩いたことのある方は、あるいは瑞泉寺の門前を通り過ぎているのではないでしょうか。この境内に豊臣秀次の墓所があること、ご存知でしたか?
写真:乾口 達司
地図を見る秀次は秀吉の姉に当たる瑞竜院日秀の長男として生まれました。少年時代は三好氏などへ養子に出されたりしましたが、秀吉が天下人になると、豊臣政権を支える親族の一人として、その存在は重要なものとなります。秀吉と淀とのあいだに生まれた鶴松が夭折すると、秀吉は豊臣政権の後継者に秀次を指名。秀次は秀吉の跡を継いで関白の座に就きます。子宝に恵まれない秀吉からすれば、みずからの後継者に身内の秀次を指名することにより、豊臣政権の永続化をはかろうとしたのでしょうが、そのことが秀次の人生を大きく狂わせます。
その転機は、秀吉と淀とのあいだに新たに「拾」(後の豊臣秀頼)が誕生したこと。秀次はやがて秀吉からその存在を煙たがれ、最後には切腹を命じられることとなりますが、哀れを誘うのは、秀次の死後、その妻や妾、子どもなど、合わせて30人あまりも処刑されていること。彼らの遺体は秀次の首とともに三条河原に埋められ、その上には「秀次悪逆塚」と刻まれた石塔が建立されました。
写真は瑞泉寺の境内に安置されている「秀次悪逆塚」。関白にまで上り詰めた人物が権力者の思惑によって切腹させられた挙げ句、塚に「悪逆塚」とまで刻まれるとは、あまりに無残だと思いませんか?
写真:乾口 達司
地図を見る「秀次悪逆塚」は瑞泉寺の境内の南西の隅に位置しています。参拝の折には、その表面に目を凝らしてみて下さい。そこには「七月十五日」という日付が刻まれているのが、おわかりいただけるでしょう。この日こそ、秀次が切腹して果てた日にほかなりません。秀次の亡くなった日を確認出来る貴重な銘文ゆえ、しっかりご覧下さい。
写真:乾口 達司
地図を見る「秀次悪逆塚」の横の小さなお堂には、ご覧の地蔵菩薩立像が安置されています。通称「引導地蔵尊」です。秀次とその一族が果てる際、貞安上人が処場に安置し、彼らを冥土へ導く役目を果たした仏像と伝えられています。そのかたわらには、一族を模した小像も並べられており、いっそうの哀れを誘います。
写真:乾口 達司
地図を見るほかにも、境内には秀次事件を題材にした絵巻や書状の一部(複製)などが展示されたスペースがあり、秀次事件がどのようなものであったかを史料の面から学ぶことが出来ます。こちらの展示スペースを見てから「悪逆塚」に参拝すると、その死がいかに理不尽であったかがうかがえるでしょう。
「秀次悪逆塚」がいかに哀れを誘う史跡であるか、おわかりいただけたでしょうか。秀次の死後、栄華の絶頂をきわめた豊臣政権は、朝鮮出兵の混乱も手伝って、その権勢を急速を失っていきます。秀吉の死から2年後に起こった関ヶ原の合戦によって徳川家康が新たに天下人の座につくことは、誰もがご存知のはず。その意味で、秀次の死は豊臣政権崩壊へのターニングポイントとなった事件であるといえるでしょう。瑞泉寺の「秀次悪逆塚」に参拝し、秀次一族の哀れな死、豊臣政権の衰亡といった出来事に思いを馳せてみて下さい。
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(2024/4/25更新)
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