二本松城がある二本松市は、東京から新幹線を使うと約2時間で着きます。駅からお城までは1kmちょっと、名所旧跡を見ながらゆっくりと歩いても、30分は掛かりません。百名城スタンプを押すなら、駅構内の観光案内所で押印するのがおすすめです
城郭の入り口に着くと、正面には堅牢な城門が聳え立ち、その手前に目に留まる石碑群が三つあります。正面には「二本松城の石碑」、少し右側には少年隊とその母が縫物をしている姿が胸を打つ「二本松少年隊群像」、駐車場の右側には、藩士の心構えを説いた「戒石銘碑」があり、国の史跡に指定されています。
城の入り口には小さな観光案内所があるので、ここで二本松城のパンフレットをもらいましょう。
皆さんは戊辰戦争の悲劇というと真っ先に「会津白虎隊」を思い出すでしょう。でも戊辰戦争一番の悲劇は、もっと幼い子らが兵士となって討死・自刃してしまった、この「二本松少年隊」です。
城郭入口にあるこの二本松少年隊顕彰碑を見逃してはいけません。戦いに臨む少年隊と、その後ろ側で我が子の無事を祈る母がいます。
当時の二本松藩には”入れ年”という制度があり、年齢を2歳足して14歳になれば出陣できる、つまり12歳での出陣が可能となってしまう制度がありました。
顕彰碑の一番右側、母親が不安そうに我が子の出陣の着物を縫う姿に、心打たれます。またその結末を知れば、涙を堪えることが出来ないかもしれません。
沢山の敵兵が攻め寄せて来ます。でもこの丹羽光重公所縁の、樫の木で作られた箕輪門を見たら、たじろんでしまうでしょう。しっかりとした渡櫓門と、他の二方向からは沢山の狭間(城側から鉄砲や弓矢が打てる小さな窓)が見えます。狙い撃ちされるのは必至です。
運良くこの箕輪門を突破できたとしても、その先は180度も折れ曲がる二の丸への通路です。当然勢いは削がれてしまいます。そこを鉄砲で狙われてしまえば、打倒される者が数多く出てしまいます。ではなぜ天下の堅城と言われたこの城があっけなく落ちたのか?そしてなぜ少年隊が討死・自刃してしまったのか?もう少し先でお話ししましょう。
この先にある二の丸広場は、今では平和の象徴ともいうべき菊人形展の会場となっているのが、偶然ではないような気がします。
では洗心亭や搦め手門を通って、天守を目指しましょう。
ここ本丸跡の天守台からは晴れた日には、安達太良連峰が良く見えます。城の入り口から天守まで、約120m程登っているので、少し疲れてしまうかもしれませんが、この景観をみれば流れてくる汗が心地よく感じられます。本丸跡を下から見上げると、石垣の見事さに圧倒されます。それもそのはず、日の本一の石工集団「穴太衆」による石積みでした。天守台から下を見下ろすと、東側に向かって城の曲輪が不規則に並んでいます。
本丸跡の裏手を見るとバスが止めてあります。という事は苦労しなくても天守まで、登ってこられるということ・・・。
でもお城を攻めるには、下から登るに限ります!
天守からの下山ルート上にも見所は沢山あります。水の流れる音を聞き、様々な曲輪跡や激戦の跡地などを辿りながら、この日本三名井「日影の井戸」を目指しましょう。(その他二つは、千葉県印西市の”月影の井戸”と神奈川県鎌倉の”星影の井戸”です)
上から覗き込んでみても、井戸の底は見えません(昭和の初期には”底なし井戸”と言われていたそうです)。この井戸は深さ16mで、更に北側に14m掘り進められていると言われています。なぜそのような形状になったのか?
この井戸を作った最初の築城主「畠山公」が、城からの脱出路にしたという説もあるそうです。真田神社や真田丸にも同じような伝説があります。
城が籠城する際に一番必要なものは、水です。水がなければ3日と持たずに城は落城します。その点この二本松城は、城域内の至る所から水量豊富で鑑賞にも適した、滝・井戸・池があります。
収蔵物は用途によって分けられ、曲輪毎に保管されていました。その曲輪も本丸から降りながら、確認することが出来ます。
そんな二本松城が落城した理由は、白河小峰城へ援軍として出兵した武士たちが戻る前に、新政府軍に攻め込まれてしまったからです。城を守る正規軍はほとんど残っておらず、老人兵と少年隊が主力でした。それでも城を守ろうとした健気さ。それが二本松城少年隊の悲劇に繋がりました。
攻め手の新政府軍もあまりに幼い子らが切りかかってくるのに驚き、何とか生け捕りにしようとしたのですが、その勢いに止む無く鉄砲で討ち取ったという記録があるそうです。
歴史に埋れて知られていない少年隊の悲劇の城、今は平和な姿で皆さんを迎えてくれます。そんな二本松城へ是非出掛けてみて下さい。
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(2024/4/19更新)
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