トルコの古代遺跡レトーンとクサントスに佇み世界遺産を体感する!

トルコの古代遺跡レトーンとクサントスに佇み世界遺産を体感する!

更新日:2018/10/19 12:24

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家
トルコ南部の地中海に面するアンタルヤ県にはたくさんの古代遺跡がありますが、世界遺産に指定されているのは、レトーンとクサントスの遺跡です。古代リキアの聖地と首都であった場所で、ギリシア神話やペルシア戦争にも関係しており非常に興味深い観光スポットです。
この二つの遺跡を訪ねて、古代ロマンの世界を体感しましょう!

レトーンの神話世界

レトーンの神話世界

写真:菊池 模糊

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現在のトルコのあるアナトリア半島南部では、紀元前1000年ころからからリキア(リュキア)と呼ばれる国が栄えました。そのリキアの首都がクサントスで、聖域がレトーンであったと思われます。
レトーンは、女神レト(レートー)が、ゼウスの子アルテミスとアポロンを生んだ場所ともされており、その神殿を中心に構成された小さな遺跡です。
女神レトは、ギリシア神話では原初神ガイアの孫にあたり、ティーターン神族に属します。実際にはリキア地方に古くから信仰されてきた地母神ラーダーに由来する可能性が高いです。

ギリシア神話によれば、レトがゼウスの子を身ごもると、ゼウスの妻ヘラは嫉妬に駆られ、すべての土地に対してレトに出産させてはならないと命じました。このため、レトは出産する場所を探して世界をさまよったのです。苦難の末、結局、波で覆われたデロス島で子供を生んだのですが、一説では、ここレトーンが出産の地であるとも言われます。
出生したのは双子で、まずアルテミスが生まれ、ついで難産の末、アポロンが生まれました。その際、アルテミスは生まれてすぐに母のアポロン出産に立ち会い助産の勤めを果たしたそうです。

レトーンには、写真のように神殿遺跡があり、立派な神殿が建っていたことが想像されます。三つの部分に分かれており、レト、アルテミス、アポロンの親子三柱の神が祀られています。数本の列柱が佇立していますが、ほとんどの柱の石材は、地面に転がっており、現在も発掘調査中です。

レトーン遺物の文字

レトーン遺物の文字

写真:菊池 模糊

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紀元前4世紀ころに、レトーンはギリシアに征服され、以前から聖地であったことから女神レトの神殿が建てられました。リキアの地母神を女神レトとしてギリシア化していったわけです。したがって名前も女神レトにちなんでレトーンと名付けられたのです。

ここで、発掘された遺物の多くが、古代ギリシア語、リキア語、アラム語で書かれており、ギリシア世界とオリエント世界の交点であったことが分かります。ギリシア語は、当時、地中海方面の共通語で、アラム語はオリエント世界の国際語として使われていました。
写真に掲載した遺物も、こうした古代ギリシア語などの文字併記で書かれており、リキア語の解読に寄与したもののひとつです。

レトーンには、その他にも、都市遺構があり、半壊した円形劇場もあります。ここが、神殿を中心とした、中規模の都市であったことが分かります。
1962年から発掘されはじめた遺跡ですが、その重要性から、1988年にはクサントスとともにユネスコの世界遺産に登録されました。

クサントスの歴史概要

クサントスの歴史概要

写真:菊池 模糊

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レトーン遺跡の北東8kmのところにクサントス遺跡があります。ヒッタイトを滅亡させた海の民ともいわれる古代リキアの首都であった貴重な遺跡です。
後期青銅器時代から地中海沿岸に居住したインド・ヨーロッパ語族系の人々が、クサントス、レトーン、トロス、ミラ、オリンポスといった都市を建設していきました。この都市国家の連合体がリキアという国で、ヒッタイトのボアズキョイ文書やエジプトのアマルナ文書ではルッカという名前で登場し、大いに繁栄したようです。

紀元前6世紀には、アケメネス朝ペルシアの侵攻を受け征服されましたが、自治を認められて共和制が行われたそうです。ペルシア帝国の盛期には、ダレイオス1世が実施したサトラップ(総督制)の一つに組み込まれました。
その後、アレクサンドロス大王の征服によってもクサントスは略奪を受けました。やがて、ギリシア・ローマに征服され円形劇場(アンフィテアトルム)やアクロポリスなどが建設されました。

このように、クサントスは重要地点として、何度も征服・破壊されましたが、そのたびに再建され、7世紀まで栄えたようです。
写真はクサントスの円形劇場の遺構です。エフェスやアスペンドスの円形劇場のように巨大なものではないですが、とても雰囲気があるもので、花が咲き旅情を誘います。

家形石棺の謎とハーピーの墓

家形石棺の謎とハーピーの墓

写真:菊池 模糊

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紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアの将軍ハパルグスは、クサントスを包囲し、勇敢に立ち向かうリキア人を全滅させたと伝えられています。いっぽう、ペルシア側もリキアの文化に影響を受け、現在イランのパサルガダエにあるキュロス2世墳墓は、ここクサントスの家形墳墓を真似たものだとする説もあります。
写真を御覧ください。クサントスの遺跡に残る二つの墳墓があり、左側の屋根のついたような「柱の墓」が問題のものです。この墓は、古いクサントスの様式を受け継いで作られたようで、パルミラの塔墓に似ていると感じる方もおられるでしょう。果たしてペルシアに影響を与えたかどうかは謎のままです。

ペルシアのキュロス2世の墓については、下記関連MEMOのLINEトラベルjp 旅行ガイド記事「ペルシア帝国の古代遺跡パサルガダエとナグシュ・ロスタムで悠久の歴史をたどる!」を御覧ください。比較しながら古代史の謎を楽しんでみるのも一興です。

また、写真の右側に写っている箱型の大きなものは「ハーピーの墓」といわれます。ハーピー(ハルピュイア)とは下半身が鳥で上半身が女性の怪物でギリシア神話に登場します。このハーピーのレリーフが上部に見られることから名付けられました。なお、この墓はレプリカで、オリジナルは大英博物館に所蔵されています。

ビザンチン時代のモザイク

ビザンチン時代のモザイク

写真:菊池 模糊

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円形劇場のある場所から、現在の道路や駐車場を挟んだ反対側にも、クサントスの遺跡が広がっています。ローマ化された時代の大通り跡が見られ、第二のアクロポリスや、墓地遺跡であるネクロポリスもあります。
さらに、キリスト教の教会跡もあり、海側に向かって下っていく形で遺跡が続いています。広大な場所に長期わたって繁栄した都市であったことが分かります。

このエリアで特に印象的なのは、あちこちに散らばっているモザイクです。写真にありますように、ちょっとした道端にも鮮やかなモザイクの跡を見つけることができます。まだまだ、発掘調査の途中ですが、今後も美しいモザイク装飾が発見されることが期待されます。
この遺跡に立って、見事なモザイクに囲まれたリキアの都クサントスの往時の姿に思いを馳せ、はるかなる古代を偲んでください。

最後に

レトーンやクサントスの遺跡は、重要な世界遺産でありながら、訪れる人の少ない穴場といえる観光スポットです。静かな雰囲気の中、じっくりと遺跡を見て回れるので、歴史好きの方には最高の場所としてお勧めします。
人気のリゾート地である、アンタルヤ、フェティエ、カシュといった場所からも近く、日帰り観光もできます。ダイレクトな交通手段がないのがネックですが、各リゾート地からの現地ツアーもありますので、それを利用するのも良いでしょう。

また、見事な岩窟墓などリキア関連の遺跡は他にもたくさんあります。時折こうしたリキアの歴史を訪ねる日本からのツアーも催行されるようです。マニアックになりますが、余裕のある方は、リゾートに宿泊しながら、古代歴史巡りの旅を存分に楽しんでください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/03/21 訪問

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