豊国神社がある中村公園は、秀吉生誕の地といわれてます。参道入口には1930年に竣工された高さ24mを超す「中村の大鳥居」がそびえており、京都にある平安神宮の大鳥居と並び日本一の高さです。(厳密には平安神宮のほうが0.4m高い)
1884年、県令(今の県知事)であった国貞廉平をはじめとする、秀吉崇敬者の人々によって、生地である名古屋(中村)に秀吉を祀ろうという運動が盛んになりました。そして、1885年に豊臣秀吉を祭神とした豊国神社が創建されたのです。社殿東側には「豊公誕生之地」の碑が立っており、中村公園内には1967年に「名古屋市秀吉清正記念館」が設置されました。
5月中旬の「太閤まつり」では、安土桃山時代の装束に扮した地元の人々が参道を練り歩く「時代行列」が開催されます。また、豊臣秀吉の敬称である「豊太閤」にちなみ、子どもの健やかな成長と出世を願い「出世稚児行列」が行われます。
豊国神社の御利益は、出世や合格祈願をすれば抜群の効果が期待できると有名です。これには秀吉の立身出世の人生と重ね併せた部分が大きく、貧しい百姓の身分だった秀吉が、天下人に上り詰めた生涯に多くの人々が共感し、次第に崇拝の念を抱くようになった表れでしょう。
日本の歴史上、最も出世をはたした秀吉ですが、2016年は生誕480年にあたる年で、没後8度目の還暦を迎えることになります。「生まれた年にかえる還暦は新たなスタートを切る」という意味で、秀吉を祀る豊国神社は年始から金尽くしの「金色混じりの墨を使った朱印」や「ど派手な絵馬付き破魔矢」などを参拝客に授与しています。
金運の御利益はどこまで効き目があるのか分かりかねますが、主に中高年の男性が競輪の予想紙を脇に挟み、熱心に手を合わせている姿を目にすると、他の神社とは違った庶民の日常が深く交わっていることを実感させられます。
瓢箪は秀吉の生涯を語る上で切っても切れない縁起物です。まだ「木下藤吉郎」を名乗っていた頃、主君である信長は美濃の斎藤道三の領地に攻め込みました。しかし、堅城で知られていた「稲葉山城」の攻略に手こずります。そのとき奇襲を成功させ、信長に送った合図が槍の先端に付けていた瓢箪だったのです。
功績を認められた秀吉は、信長から瓢箪を馬印にすることを許されました。これが秀吉と瓢箪の関係の始まりです。彼は戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていったことから、秀吉の馬印のことを「千成瓢箪」といいます。城主をつとめた長浜では「六瓢箪」という秀吉所縁の社寺も残っているほどです。
神社の手水舎には金の瓢箪が目立つ処にあしらってあります。そして、公園のほぼ中央に位置するひょうたん池。この池は秀吉ゆかりの瓢箪型に造成されており、参拝しただけではその形に気づきません。隣の「関白池」とを繋ぐ橋を渡ると、はじめて池の全体像が浮かび上がってくるのです。
社殿は小ぶりの質素な造りで、祭神である秀吉の絵姿が掲げられています。拝殿横に祭神の肖像画が飾られている神社はかなり珍しいといえるでしょう。それだけ、尾張における秀吉の人柄が庶民にとって身近なものであることがうかがえます。
秀吉を祭神とする神社は、出世、開運、茶道、建設などに御利益があるといわれています。また、百姓出身だったことから、政略結婚とは無縁で、戦国武将として初めて恋愛結婚した人物とも伝えられており、良縁・縁結びの御利益もあるとされています。
一帯は社殿の前に焚き火があったり、境内(公園内)を自転車で通る人がいたりと、他の神社の風景とは一風変わっています。「中村の大鳥居」をくぐってからの参道もコンビニあり、フードチェーン店ありと、ありふれた日常生活が営まれています。歩いていても、神聖な場所に近づいているという空気を漂わせないところが、この神社の最大の魅力なのかもしれません。
熊本城を築城したことでも知られる加藤清正。その他にも名古屋城を設計しており、「城造りの天才」と謳われました。歴史上では「賤ヶ岳七本槍」の一人として有名ですが、その勇猛果敢な豪傑ぶりだけでなく緻密な兵法家としての一面も見逃せません。
清正は幼いときから同郷である秀吉に仕え、数々の軍功をあげました。そして、中村公園に隣接する妙行寺は加藤清正建立の寺院であり、妙行寺には加藤清正誕生地の碑と清正の銅像があります。
多くの豊臣家家臣がいる中で、秀吉と共に同じ敷地内に清正の名が刻まれていることは縁者という関係だけにとどまらず、いかに清正が忠義心の厚い人物であったかが分かります。その主従関係は後世まで語り継がれ、現在も人々から崇敬の念を集めています。
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