平安衣装で二人の愛を誓おう〜聖地・熊野のパワーを求めて

平安衣装で二人の愛を誓おう〜聖地・熊野のパワーを求めて

更新日:2018/10/26 20:22

沢木 慎太郎のプロフィール写真 沢木 慎太郎 放送局ディレクター、紀行小説家
世界遺産に登録された信仰の道「熊野古道」。紀伊半島の南部にある熊野は、平安時代に浄土信仰の高まりから京の貴族たちがお参りした聖地。那智の滝など見どころがたくさんありますが、一番のおススメは『熊野那智大社』。“熊野三山”の一つで、縁結びの神さまとしても有名です。珍しい平安衣装に身を包み、鮮やかな朱塗りの拝殿を訪ねてみてください。いにしえの熊野の姿が今も息づき、何かのパワーを感じずにはいられません。

女性の壺装束は可愛らしく艶やか。熊野那智大社では平安衣装のレンタルも

女性の壺装束は可愛らしく艶やか。熊野那智大社では平安衣装のレンタルも

写真:沢木 慎太郎

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写真は、熊野那智大社で出会ったカップルです。女性は、壺装束姿。艶やかで可愛らしいですね。壺装束というのは、平安時代から鎌倉時代にかけて、公家の女性が外出する時に身にまとった衣装で、平安衣装のことです。

メキシカンハットのような「市女笠(いちめがさ)」、薄い布で顔を覆う「むしの垂衣(たれぎぬ)」といった旅姿は、上品な雰囲気を漂わせ、まわりの人を惹きつけます。

写真を頼まれたのですが、『LINEトラベルjp』に掲載してもOKということで撮影させていただきました。
話しを聞くと、参道の大門坂茶屋と熊野那智大社では平安衣装をレンタルすることができるというのです。女性だけでなく、男性も公家の狩衣、武士の直垂など、さらに凛々しい姿に。

これは、二人の素敵な旅の思い出になると思いました。こちらまで、ほのぼのとしたいい気持にさせていただきました。いつまでもお幸せに。

お二人がいらっしゃる「熊野那智大社」は、「熊野本宮(ほんぐう)大社」「熊野速玉(はやたま)大社」とともに、熊野三山のひとつ。主祭神は、日本神話に出てくる女神のイザナミノミコトとされる熊野夫須美神(くまのふすのかみ)。あらゆるものの成長を見守るこの女神は、漁業の守護神や縁結びの神、諸願成就の神としても崇められています。

社殿と境内は、ユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録。社殿は、仁徳天皇の時代(317年)に現在の位置に創建されたもの。織田信長の焼き打ちに遭いましたが、豊臣秀吉が再建しました。
境内には、日本サッカー協会のロゴにも使われている“八咫烏(やたからす)”の烏石があるほか、樹齢約850年の大楠が茂っています。

「熊野那智大社」は標高約500メートルに位置し、JR紀勢本線(きのくに線)紀伊勝浦駅から、那智山神社お寺前駐車場まで熊野交通のバスで約25分。つづら折りの山道には原生林が鬱蒼と茂っています。

■平安衣装のお問い合わせ
■熊野那智大社(TEL:0735-55-0321)
■予約受付時間 9:00〜16:00
■料金 モデルコース(2000円)、体験コース(3000円)

原生林が生い茂る熊野 古くから神々が住む聖地と崇められてきた

原生林が生い茂る熊野 古くから神々が住む聖地と崇められてきた

写真:沢木 慎太郎

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熊野とは、かつての紀伊国牟婁(むろ)郡のことで、紀伊半島南部の地域。熊野の「熊」は森のクマさんのことではなく、奥まったところという意味の「隈」が語源ということです。京の都から見ると、吉野や高野山よりもさらに南にある熊野は、“辺境の地”というイメージがあり、古くから“神々の住む聖地”“死霊の集まる再生の地”として崇められてきました。

熊野は、奈良時代から平安時代にかけて修験道の行場として栄えました。修験道とは、インドから伝わる仏教と、日本の神とが融合した宗教。滝に打たれ、険しい山々を踏み越えることで肉体を鍛え、魂の浄化をはかろうとするものです。

熊野が修験道の霊場となることで、この地が阿弥陀(あみだ)様や観音様が坐(いま)す浄土として信仰されるようになりました。熊野に行ってお参りをして都に戻ると、魂が蘇ると信じられたのです。

熊野への信仰が高まったのは、熊野の神々が身分や性別に関係なく、誰でも受け入れてくれる懐の広い神さまだったから。その考えを広めたのが、鎌倉時代の終わりに現れた「時宗(じしゅう)」と呼ばれる宗教者たち。

阿弥陀如来さまがいらっしゃる極楽浄土に行って成仏することを説いた浄土教系の新仏教徒で、これまで皇族や貴族など上流貴族のものであった熊野信仰を庶民にまで広げ、霊場の立ち入りを禁止されていた多くの女性が参詣するようになりました。

最も熊野に多く参詣した天皇は、1156年に即位した後白河天皇で、乱れた世の中の安寧を願い、在位40年間の間に34回も熊野にお参りに行ったようです。

ちなみに写真は「熊野那智大社」に向かう途中に建っている鳥居と、“那智大瀧”と刻まれた石碑。周辺には、いにしえの人々が神として崇めた原生林の姿がひっそりと、しかし色濃く息づいています。

飛瀧(ひろう)神社から見た“那智の滝”は大迫力

飛瀧(ひろう)神社から見た“那智の滝”は大迫力

写真:沢木 慎太郎

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“那智大瀧”と刻まれた石碑を過ぎ、鬱蒼とした杉木立に囲まれた石畳を下りてゆくと、大きな石造りの鳥居が見えてきます。ここが、熊野那智大社の別宮とされる「飛瀧(ひろう)神社」。写真のように轟々と落下する滝の様子を目の当たりにすることができます。いちめんに飛沫がたちこめ、大迫力。神の強い意志のようなものを感じます。

那智の滝と呼ばれているのは“一の滝”のこと。この上流には、“那智四十八滝”といわれるほど多くの滝があるのです。
那智の滝は、落差が133メートル。一段の滝としての落差は日本一で、「華厳滝」「袋田の滝」とともに日本三名瀑(めいばく)に数えられています。
滝口からは3本の水がダイナミックな岩壁を背景に垂直に落下。豪快に落ちる滝は荘厳な眺め。まるで白い絹を垂らしたかのように優美です。

那智の滝は、熊野那智大社と飛瀧神社のご神体として、古くから人々の畏敬を集めてきました。日本では昔から、山や森、樹木などに神々が宿っているという信仰があり、滝への信仰もその一つ。勝浦の沖合からも眺めることができ、昔の漁師さんにとって那智の滝は洋上での目印。滝が見える海域なら安心して漁に専念することができます。漁師さんの生活を見守る那智の滝は、やがては人びとの篤い信仰へと結びついていったのですね。

こちらでは毎年7月14日に、日本三大火祭りの一つとされる“那智の火祭り”が行なわれます。重さ50キロ以上もある大たいまつの炎が、鬱蒼とした杉木立が立ち並ぶ参道いっぱいに乱舞する様子は圧巻!

このお祭りは、熊野那智大社にお祭りした熊野夫須美神をはじめ、12神が年に一度だけ、那智の滝に里帰りする様子を表したもの。神々を大たいまつでお迎えし、その炎で清める神事が“那智の火祭り”です。

安土桃山時代の建築様式を色濃く残した青岸渡寺

安土桃山時代の建築様式を色濃く残した青岸渡寺

写真:沢木 慎太郎

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冒頭でご紹介した熊野那智大社の右側を進むと、色鮮やかな朱色の熊野那智大社とは対照的に、落ちついた風格のあるお堂があります。これが青岸渡寺(せいがんとじ)の本堂。安土桃山時代の建築様式を色濃く残し、南紀最古の檜皮葺きの入母屋造りは国の重要文化財に指定されています。

本堂では、本尊の如意輪観世音(にょいりんかんのん)を祀っています。4世紀の仁徳天皇の時代に、インドから那智にまでやって来た裸形上人が、那智滝の滝壺で修業をしていた時に黄金色に輝く観音仏を見つけ、これを本尊として安置したとされています。

熊野詣でを始めたのは、花山天皇(かざんてんのう)とされています。十七歳で即位しますが、すぐに出家。永延2年(988)に那智を訪れ、三年間も滝ごもりをしていたそうです。花山天皇が青岸渡寺を西国三十三ヶ所第一番札所として定め、全国から多くの参拝者が訪れています。
青岸渡寺は、熊野那智大社と同様に織田信長の焼き打ちにあって消失。その後、1590年に豊臣秀吉が再建しました。

ところで、格式のある神社の裏手に、壮麗な寺院が建っているのは、熊野独特の“神仏習合(しんぶつしゅうごう)”という信仰によるもの。
日本には独自の神がいたのに、インドから生まれた仏教が6世紀に日本に伝わると、「神はもともと仏である」=「神の本体(本地)は仏である」という考え方が生まれました。

これを難しい言葉で本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と呼んでいます。日本の神々は、もともとはインドの神さまで、仏さまや菩薩さまのお姿を借り、仮の姿としてこの世に現れた(これを垂迹という)もの。

垂迹というのは、迹(あと)を垂れるという意味で、インドの神々が、日本の神さまという仮の姿で日本に現れたとする考え方です。
“仮の姿”のことを、仏教の言葉で、“権(かり)”“権現(ごんげん)”と呼ばれています。

熊野那智大社では“熊野夫須美大神(くまのふすのおおかみ)”の神さまを祀り、この日本の神さまの本地(本体)である仏教の神「千手観音菩薩さま」がいらっしゃいます。

鮮やかな朱色の「青岸渡寺の三重塔」。「那智の滝」とのコントラストが絶妙

鮮やかな朱色の「青岸渡寺の三重塔」。「那智の滝」とのコントラストが絶妙

写真:沢木 慎太郎

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青岸渡寺(せいがんとじ)の本堂を過ぎると、眺望が開けた場所に出ます。こちらでは写真のように、色鮮やかな朱色の三重塔と、崖から流れ落ちる那智の滝とのコントラストが美しく、絶好の撮影スポット。絵ハガキやポスターなどでもおなじみの風景です。

三重塔は、天正9年(1581年)に豪族の対立によって焼失。現在の三重塔は、昭和47年(1972年)に実に400年ぶりに再建されたもの。
再建された塔の高さは25m。一辺の長さが12メートルの各層には、きらびやかな格天井(ごうてんじょう)と板壁画が彩っています。

三重塔は鉄筋コンクリート造りで、エレベーターまであり、近代的なのには驚きました。4階は展望フロアとなっていて眺めが良く、那智の滝の滝壺を覗き見ることができます。

以上、いかがでしたでしょうか?
「熊野那智大社」を含む熊野三山を目指し、平安時代には京都の上皇や貴族たちが、江戸時代には多くの庶民が訪れました。その様子は、まるで多くのアリが一列となって歩いているよう。このため、“蟻の熊野詣(くまのもうで)”とも呼ばれたとか。

熊野本宮は阿弥陀さまが住んでいる『西方極楽浄土』、熊野新宮は薬師如来さまが暮らしている『東方浄瑠璃(とうほうじょうるり)浄土』、熊野那智は観音菩薩さまが住む『南方補陀落(なんぽうふだらく)浄土』と考えられ、平安時代から熊野すべてが浄土の地とみなされるようになったのです。

その根底にあるのは、熊野の美しい大自然に畏敬の念を抱き、これを崇め、自然の恵みとともに暮らしてきた人々の想い。それゆえに、那智の大自然は日本人の心を揺さぶるものがあります。
平安時代の旅人が憧れた聖地・熊野。平安衣装に身を包み、熊野のパワーを感じる旅にぜひお出かけください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2013/08/11 訪問

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