根本中堂からあんみつまで!上野公園・幻の大寺院「寛永寺」

根本中堂からあんみつまで!上野公園・幻の大寺院「寛永寺」

更新日:2017/08/04 17:39

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
動物園や博物館、そして桜並木で名高い上野恩賜公園は、江戸時代はすべて「寛永寺」の境内でした。江戸時代の年号の寛永を号し、徳川家の栄華と共に歩んできた大寺院でしたが、幕末から維新後に一時廃止状態となり、現在は、僅かながらの境内で再興されました。
寛永寺を開山した天海僧正の夢、栄華を誇る寛永寺伽藍、そして栄華の終焉を迎えた上野戦争の痕跡を辿り、幻の寛永寺を偲びます。

天海僧正の夢「輪王寺」

天海僧正の夢「輪王寺」

写真:Naoyuki 金井

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東京国立博物館東側にあるのが「輪王寺」。東叡山寛永寺の開山・天海僧正と、天海僧正が尊崇していた良源僧正を祀っていることから両大師と呼ばれていますが、正式には天海僧正を祀った「開山堂」です。

天海僧正の夢「輪王寺」

写真:Naoyuki 金井

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天海僧正が世に知られるようになったのは、信長により焼討された比叡山延暦寺の復興を命じられてからで、現在の根本中堂を始めとして多くの堂宇を再建しました。以降、天海僧正は江戸に比叡山を造りたいという夢を持つのです。

天海僧正の夢「輪王寺」

写真:Naoyuki 金井

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天海僧正の夢で始まった寛永寺の終わりは、江戸時代の終わりと歩みを共にします。幕末の新政府軍と旧幕府軍の戦い「上野戦争」による旧幕府軍の敗北が、寛永寺の栄華の終焉で、これにより敷地の大部分が上野公園となりました。
境内にはかつての寛永寺の本坊の「表門」が現存し、官軍の攻撃による弾痕が数多く残っています。

終わりの始まり「根本中堂」

終わりの始まり「根本中堂」

写真:Naoyuki 金井

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天海僧正の夢は、2代将軍秀忠から与えられた現在の上野公園の敷地から始まり、年号の「寛永」と東の比叡山の意味の「東叡」から「東叡山寛永寺」を開山します。本堂は「根本中堂」で、現在の上野公園大噴水辺りに建立されましたが、上野戦争で焼失しました。
現在の根本中堂は明治になり、川越の喜多院本地堂を移築したものです。

終わりの始まり「根本中堂」

写真:Naoyuki 金井

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天海の夢は徳川家の菩提寺になることで、それまでの菩提寺の芝増上寺と交代で歴代将軍の墓所を造営することで夢と栄華を成しました。この墓所も多くは上野戦争で焼失し、現在は「徳川家綱霊廟勅額門・同水盤舎」と「徳川綱吉霊廟勅額門・同水盤舎」が現存しているのみです。

終わりの始まり「根本中堂」

写真:Naoyuki 金井

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寛永寺の凋落を象徴するのが、根本中堂の裏手にある「書院」。徳川慶喜が大政奉還後、水戸退去の前に2ヶ月間蟄居していた部屋が残されています。江戸幕府と寛永寺の終わりの始まりです。

参道を彩る堂宇「旧寛永寺五重塔」

参道を彩る堂宇「旧寛永寺五重塔」

写真:Naoyuki 金井

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根本中堂のあった大噴水から上野公園を南下する現在の園路が、かつての寛永寺の参道。参道の西側にある上野動物園内には重要文化財「旧寛永寺五重塔」があり、元々は上野東照宮の塔として寛永8年に建てられました。明治の神仏分離令により寛永寺の管理下に置かれ、昭和33年にに東京都に寄付されました。

参道を彩る堂宇「旧寛永寺五重塔」

写真:Naoyuki 金井

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正岡子規が野球を楽しんだ正岡子規記念球場の先にあるのが「上野大仏」。大仏と云っても現在は顔面だけ。これは1631年に建立されたものの度重なる災害と関東大震災での崩壊後、昭和47年に顔だけが戻ったためです。現在では顔しかない状態から「これ以上落ちない」と合格大仏として受験生に祈願されています。

参道を彩る堂宇「旧寛永寺五重塔」

写真:Naoyuki 金井

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江戸幕末に9ヶ所あった時を告げる時の鐘で、日本橋石町、浅草寺、四谷天龍寺と共に現存するのが上野寛永寺の「時の鐘」。特に市谷八幡、四谷天龍寺と共に江戸時の鐘三名鐘といわれた名品で、現在でも午前・午後6時と正午に撞かれています。

比叡山へのこだわり「清水観音堂」

比叡山へのこだわり「清水観音堂」

写真:Naoyuki 金井

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比叡山が京都の鬼門を守護することに倣った寛永寺では、京都の清水寺を模した「清水観音堂」を建立しました。規模は違いますが舞台造りの完全コピーで、本尊も清水寺から迎え秘仏としている徹底ぶりです。

比叡山へのこだわり「清水観音堂」

写真:Naoyuki 金井

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清水観音堂の前にあるのが「月の松」。江戸時代の浮世絵師歌川広重の代表作の一つ“名所江戸百景”で描かれた松で、江戸の風情を復活させるため2012年に復元されました。

比叡山へのこだわり「清水観音堂」

写真:Naoyuki 金井

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その月の松から見える建物が不忍池の「弁天堂」。天海僧正は、元々あった不忍池を比叡山の畔にある琵琶湖に見立て、琵琶湖にある竹生島の宝厳寺にならい中之島を築かせ弁天堂を建立し、宝厳寺の弁才天を勧請しました。

寛永寺とあんみつ「みはし」

寛永寺とあんみつ「みはし」

写真:Naoyuki 金井

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西郷像のある上野の山を下りた階段の横にあるのが「黒門」モニュメント。モニュメントと云われなければ何のことかわからないが、実は寛永寺の総門だったものです。戦争で奇跡的に焼け残りましたが、現存するものは荒川区の円通寺に移築され、こちらは当時の場所にモニュメントというチグハグな歴史的遺産です。

寛永寺とあんみつ「みはし」

写真:Naoyuki 金井

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この黒門の前の通りが中央通りで、丁度、この辺りが嘗ての寛永寺の表参道口となります。現在の中央通りは、徳川将軍家の霊廟参拝に向かう道であった為、当時、道幅を広げたことから広小路と呼ばれました。その名称は東京メトロの上野広小路駅や交差点名等に残っています。

寛永寺とあんみつ「みはし」

写真:Naoyuki 金井

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当時黒門前の広小路には、不忍池から流れる忍川が横切るように流れていて、三つの橋が並んで架けられていました。将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋でもあったので、「三橋」とも「御橋」とも云われ、後に旧町名三橋町となりました。
川も暗渠になり橋も町名も無くなった今、江戸時代の名残は老舗「あんみつ みはし」で、行列のできる人気甘味処が郷愁を誘います。

最後に・・・

天海の夢見た寛永寺はいかがでしたか。
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺領11,790石を有し、子院が36院(現存するのは19院)。旧境内は現在の上野公園のほぼ全域ですが、上野公園の2倍の面積の寺地を有していたと云われています。
現在では想像もできない隆盛を極めた寛永寺を、上野公園をお散歩しながら偲んでみてはいかがですか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/03/05 訪問

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