伊勢崎市の世界遺産「田島弥平旧宅」で知る日本シルクロードの原点

伊勢崎市の世界遺産「田島弥平旧宅」で知る日本シルクロードの原点

更新日:2016/04/14 10:32

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
明治〜大正にかけた日本の生糸生産は世界でも一、二位を争い、ヨーロッパの絹産業に大打撃を与えたほどのシルク大国でした。
世界遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』は、製糸技術を発展させた富岡製糸場と養蚕業の技術革新に取り組んだ3つの遺産群を併せたもので、シルク大国日本の歴史を知る重要な遺産です。
今回ご紹介する『田島弥平旧宅』は、シルク大国となる日本の出発点として見知って頂きたい世界遺産なのです。

シルク大国への黎明期

シルク大国への黎明期

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

初めに知っておくべきことは絹産業で、大きく3分類されます。
養蚕農家が蚕を飼って繭を作らせる《養蚕業》、その繭から生糸を作って販売する《製糸業》、そしてその生糸で織物を作る《織物業》の3つで、富岡製糸場は《製糸業》で、遺産群は《養蚕業》に分けられます。そんな中『田島弥平旧宅』は、《養蚕業》のなかでも養蚕農家に蚕の卵(蚕種)を供給する『蚕種製造業』で、正に絹産業の始点と云えるのです。

時代は江戸時代末期、当時のフランスやイタリアにおいて“微粒子病”という蚕の病気が蔓延し、蚕種や生糸が不足したことが日本のシルク大国へ進むきっかけとなりました。
その出発地点が田島弥平旧宅で、田島弥平旧宅近くの駐車場を兼ねた“旧宅案内所”に養蚕や旧宅の解説、そして資料等が展示されていますので、まずは案内所に足を運びましょう。

清涼育の確立

清涼育の確立

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

江戸時代末期、蚕は年に1回春(現在は6回程度)にしか飼育できなかったので、蚕の成長は養蚕業にとって1年の繭の収穫を左右するほどの重大事でした。その為、常に蚕の品種改良や新品種を開発し、最適な育成法の確立等を行わなければなりませんでした。そして、それらの蚕の開発・改良を行ったのが蚕種製造業で、先行投資の必要性などから豪農などが専業化して蚕種製造業者となり、その中の一人が田島弥平なのです。

当時の蚕の育成法は、蚕室を温める【温暖育】が主流でしたが、失敗が多いため様々な改良を重ねながら田島弥平は、米沢の養蚕農家の【自然育】に着想を得て上手に蚕が育成できる【清涼育】を確立し、安定した繭の生産に成功したのです。後に、この清涼育による養蚕技術をまとめたものが『養蚕新論』『続・養蚕新論』で全国の養蚕農家の大ベストセラーになったのです。
このような歴史や資料が、田島弥平旧宅案内所に展示・解説されていますのでご覧になってください。また、ここで周辺の見所なども教えて頂けますので、是非、見学の参考にされると良いでしょう。

田島弥平旧宅の役割

田島弥平旧宅の役割

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

田島弥平旧宅は、蚕種製造業なので【清涼育】実践のためには養蚕を行う建物が必要でした。そこで弥平は自宅に蚕室を作り実験を行ったのです。屋根裏に採光と通風を得る屋根正面の一部が切り落とされた“赤城型民家”と云われる蚕室をベースに研究され、1856年、屋根の上に“換気のための窓=ヤグラ”を据え付けた試験的蚕室《香月楼》を作りました。
このヤグラは、蚕室としては非常に良い換気システムとなり、蚕の飼われている台を常に乾燥させ、病原菌がはびこらない様にして蚕の病気を防いだのでした。

この実験成功により弥平は『主屋』の2階部分を蚕室にして、屋上棟頂部の端から端までヤグラが乗る、総ヤグラの形状で主屋を建て直したのです。最初の研究蚕室の香月楼は現在、基壇の石組みだけしか残っていませんが、主屋の総ヤグラは現存しています。また、敷地内には主屋の次に作られた蚕室《新蚕室》の基壇の石組み、そして蚕の餌である桑の葉を貯蔵した《桑葉》、そして養蚕や飲み水を確保した《井戸》等が残されています。

島村は養蚕繁栄の地

島村は養蚕繁栄の地

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

江戸時代の末期に起こったペリー来航から始まる日本の開国、そしてヨーロッパの微粒子病における絹産業の衰退。こうした背景のもと、上質な蚕種を作りだした田島弥平宅を中心とした当時の“佐位郡島村”では、『島村式蚕室』と呼ばれるヤグラを備えた家屋で蚕種製造業に従事する農家が増えたのです。そして1864年に蚕種の輸出が解禁されると地区自体が養蚕の村として繁栄し、その名残が弥平旧宅周辺にある田島一族の自宅です。

弥平宅のすぐ隣が《田島武平宅》で、弥平の本家にあたり、ここだけは期日限定で内部が公開されています。その他、弥平宅と同じ総ヤグラの《田島乙三部宅》、三つヤグラの《田島定吉宅》《田島平内宅》、そして写真の景観重要建造物、2014年景観まちづくり賞に選ばれた総ヤグラの《田島林平宅》があります。
折角の機会ですから、歩いて廻っても二十分程度の『島村式蚕室』の歴史的景観を是非見て下さい。

イタリアとの直接貿易

イタリアとの直接貿易

写真:Naoyuki 金井

地図を見る

やがてヨーロッパの微粒子病が克服され蚕種の輸出が振るわなくなると、弥平らは自らイタリアへの直接輸出を模索します。手始めに弥平は、本家である田島武平の親戚が血洗島(埼玉県深谷市)の渋沢栄一であったことも幸いして、栄一の勧めで『島村勧業会社』を設立します。この会社は田島一族のものではなく、蚕種生産農家の仲間組織なので、あくまで“島村ブランド”の販売を目的としていました。そして、栄一の仲介による三井物産の協力を得てイタリア直輸出を始めたのです。

計4回の直接輸出の結果は失敗に終わりましたが、これにより新たに産まれた功績や文化が伝わりました。
その一つが『顕微鏡』で、イタリアでの蚕病予防に顕微鏡が活用されているのを知り、弥平は、日本で最初に蚕病予防に顕微鏡を活用したのです。案内所には、その時の顕微鏡が展示されており、弥平旧宅と田島林平宅には、採光だけを考えた“顕微鏡室”が残っています。
また、キリスト教文化も伝わり、明治30年に建てられた“島村教会”は当時の島村のシンボルで、現在でも『島村教会・めぐみ保育園舎』として存続しているのです。

最後に。。。

こうして島村(現在の伊勢崎市)から始まった養蚕の改革は、日本の絹産業の発展の原動力となったのです。この後、富岡製糸場が繭の改良運動を始めると、田島家は外国種や一代雑種の試験飼育などに協力、貢献しました。

世界遺産『富岡製糸場と絹産業遺産群』は、4つの資産をすべて見て初めて知ることができるのです。おススメは『田島弥平旧宅』『高山社跡』『荒船風穴』『富岡製糸場』と巡るのが、歴史的にも産業的にも理解しやすいでしょう。
また、『田島弥平旧宅』のある伊勢崎市のお隣、埼玉県深谷市は、渋沢栄一の生誕の地で栄一や富岡製糸場に関わる史跡もありますので、併せて観光されるのも良いでしょう。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/03/10 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -