写真:Naoyuki 金井
地図を見るにわか雨にあった若き日の太田道灌が、“蓑(みの)”を借りようと貧しい民家を訪ねると、応対した少女は何も云わずに一枝の山吹の花を差し出しました。
道灌は意味が分からなかったのですが、「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞかなしき」という古い歌を教えられ、“実の一つだに無き=蓑が無い”という少女の想いを知り、それ以降、文武両道に励んだと云われる伝説が越生に伝わっているのです。
この伝説を偲ぶために造られた『山吹の里歴史公園』には3,000株の山吹が植えられ、シンボルの水車小屋が趣ある風情を醸し出しています。東屋で花を愛でるのも良し、展望広場から夕暮れや夜景を見るのも良いでしょう。
若き日の道灌と少女との姿を思い描くことができるかもしれません。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る自然豊かな町越生で名物なのが《梅》で、越生一帯では約二万本の梅が植えられています。
越生の梅は、南北朝時代の1350年に九州の大宰府から小杉天満宮(現・梅園神社)を勧請した際、道真に因んで梅を植えたのが起源だと云われています。
梅の里の中でも全国的に著名なのが関東三大梅林の一つに数えられる『越生梅林』。
その越生梅林にある古木《魁雪》は、南北朝時代の梅が生き長らえたと考えられている樹齢650年の梅の老木です。太田道灌の父道真は引退後、越生に居館《自得軒》を構え、川越城に居た道灌は連歌会で「梅さきぬ なお山里を おもふ哉」と詠み、越生の梅を讃えたのです。
太田道灌や中世の雅人が愛でたかもしれない貴重な名木ですから、梅の時期ではなくても一見の価値は十分ある老木です。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る太田道灌の父道真が建てた居館《自得軒》があったのが現在の『建康寺』。
1486年の夏、詩人でもある僧・万里は、道灌と共に川越城からこの地を訪れました。そして万里は道真、道灌父子の対面の一夜を著作の中で《稀公郭》という漢詩を残しています。
翌朝、万里は道灌父子と別れて故郷岐阜に去ったのですが、不運を聞いたのはその年の秋でした。
戦の功をあげて威望も絶大なものになっていた道灌を恐れるようになった主君の扇谷定正が、現在の神奈川県伊勢原市で道灌を暗殺したのです。
息子道灌の死を悼んだ道真は、父子最後の対面の地《自得軒》の一角に『建康寺』を建立して菩提を弔ったのです。
この建康寺の前の越辺(おっぺ)川に掛かる橋が《道灌橋》で、その橋を渡ったところが《馬場》で、道灌が馬の調教をしたと伝えられている場所です。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る草創は807年と云われ、1430年に六代将軍足利義教によって戦乱に果てた人達を弔う為に開基されたのが『龍穏寺』です。しかし、その後の兵火により荒れ果て、1472年に太田道真・道灌父子により中興されました。そして1590年には秀吉から御朱印100石を受け、徳川幕府からは曹洞宗関東三ヶ寺を命じられた名刹なのです。
本堂等の多くは江戸時代の火災で焼失したのですが、《無相門》と呼ばれる仁王門を始め、彫刻が素晴らしい《経蔵》、《梵鐘》が文化財に指定されています。
道灌は、暗殺された現在の神奈川県伊勢原市に首塚と胴塚が残されていますが、ここから分骨されたと伝わる《太田道真・道灌父子の公墓》が境内にあり、更に太田道灌の銅像も建立されています。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る道灌所縁の地を巡って疲れたら、龍穏寺からほど近い森の中にある『山猫軒』で一休みしましょう。
道灌とは所縁があるわけではないのですが、宮沢賢治をイメージしたカフェで、森の隠れ家カフェとして人気ですので、ゆったりした雰囲気の中で、2020年大河ドラマ予想でもしてみてはいかがでしょうか。
これまでご紹介したように、越生町は大河ドラマに関係なくても所縁の地巡りとして十分楽しめる観光スポットです。また、自然豊かな越生では他にも見所スポットも多数あります。
道灌の時代に山岳宗教の拠点として栄えた《黒山三滝》や、樹齢1000年を越え道灌たちをずっと見続けてきた天然記念物の《上谷の大クス》、そして平安時代以降祀られ、道灌父子を見守っていたかもしれない"五大明王像"のあった名残の《五大尊つつじ公園》も見事なのです。
2020年の成り行きは分かりませんが、もし道灌が主人公に決まれば、越生町にもより観光客が訪れることでしょう。
それでも2020年を待たずとも訪れてみる価値は十分にある魅力的な観光スポットです。
四季を問わず一年中楽しめる越生に行ってみてはいかがですか。
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(2024/3/29更新)
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