劉備玄徳の墓と諸葛亮孔明を祀る武侯祠!四川省成都は三国志・蜀の都

劉備玄徳の墓と諸葛亮孔明を祀る武侯祠!四川省成都は三国志・蜀の都

更新日:2019/02/23 15:41

三国志・蜀の初代皇帝となったのが劉備玄徳です。劉備が蜀の都と定めたのが四川省成都であり、必見の観光地。

ところで武侯祠とは諸葛亮孔明の祠。諸葛亮の諡号が武侯なのです。しかし、主君の劉備玄徳の墓「恵陵」が武候祠の中となっているので、とても不思議な場所と言えるのです。

約1800年の歴史を誇る三国志・蜀の極めて重要な場所である武侯祠と、敷地奥にある赤い壁が目に鮮やかな美しき竹林を紹介します。

劉備玄徳を祀る「漢昭烈廟」

劉備玄徳を祀る「漢昭烈廟」
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成都市内の大きな通りである武侯祠大街に面して「武侯祠」があります。正面入り口に「漢昭烈廟」の額が掲げられていて、これは劉備玄徳の霊廟という意味であり、劉備の諡号が昭烈なのです。「武侯祠」は諸葛亮孔明のことで、この場所には二人が同時に祀られています。

しかしながら「武侯祠」がこの地の名称であり、通りまで同名で呼ばれていることから分かるように、主君の劉備玄徳より諸葛亮孔明の祠として認識されているのです。

不思議な感じがしますが、実はもともとは劉備の霊廟だけでした。ところが成漢(後蜀とも称される国 304年−347年)を建国した李雄により、現在の場所に諸葛亮孔明の霊を祀るため「武侯祠」を作ったのです。その後、劉備玄徳と諸葛亮孔明の二人を祀る霊廟として整備されたのは明朝の頃です。

劉備玄徳(延熹4年(161年)− 章武3年(223年))は、諸葛亮孔明(光和4年(181年)−建興12年(234年))の天下三分の計という進言を受け入れ、蜀の建国を目指します。これは既に大国であった「呉」と、新興国でありながら強い力を持った「魏」との間で、漢の正式な血筋として国を打ち立てるというものだったのです。

「武侯祠」で祀られる諸葛亮孔明

「武侯祠」で祀られる諸葛亮孔明
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「漢昭烈廟」の中に、「武侯祠」があります。日本では孔明と呼ばれ親しまれていますが、中国では諸葛亮と呼ばれ親しまれています。諸葛亮の祠は、中国のいたるところにあると言っても過言ではありません。その中で最も格式が高く、最も有名なのが成都の「武侯祠」です。

その理由ですが、中国での諸葛亮人気は、主君の劉備をはるかに上回っているからです。その状況がこの地を「漢昭烈廟」よりも「武侯祠」として有名にしたのです。

英雄たちの像

英雄たちの像
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丞相・諸葛亮は臣として笏は持たず、トレードマークの羽を持っています。像の様々な違いを見比べてみるのも面白いでしょう。

主君の劉備玄徳を含め、蜀の英雄たちの像が50体並んでおり、その様子は圧巻です。劉備玄徳は主君の証である笏を持ち、そこには道教のシンボルの一つである北斗七星が彫られています。

なお、蜀を滅亡に追い込んだ劉備玄徳の息子である劉禅は、一度はこの地に祀られるのですが、南宋の頃に廃祀となります。

「恵陵」とは劉備の墓

「恵陵」とは劉備の墓
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武侯祠内を歩き、正面に黒い屏風がある場所が劉備の墓「恵陵」です。屏風は今でも沖縄で多く見ることが出来ますが、これはもともと中国道教による魔除けです。大きく黒い屏風は日本のものとかなり異なっており、違いを観察するのも面白いのではないでしょうか。

劉備の没年は223年であり、恵陵の造営も223年とされています。盛られた土の高さは12mあります。周囲は「阆中古城」にある張飛の墓と同じで円形となっており、歩くことが出来ます。180mの周囲は盛り土と壁で仕切られ通路となっています。また、ここには甘夫人、呉夫人も合葬されています。

恵陵の奥にある美しき竹道

恵陵の奥にある美しき竹道
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劉備の墓である恵陵の奥に、実に美しい道がありますので、ぜひとも歩いてみて下さい。赤い壁と奥に見える竹は、まるで蜀の時代に引き戻されたかのような錯覚を起こすかも知れません。

四川省成都で劉備の墓と孔明の武侯祠。他にもある外せない観光地

1961年に四川省成都市の「武侯祠」は、中国全国重点文物保護単位に指定されています。これは中国国務院が制定する文化遺産保護制度であり、いずれも国家級の文化遺産に対する名称です。

今回ご紹介した他にもたくさんの見どころがあり、お土産品を扱っているコーナーもありますので、楽しい時間を過ごすことが出来るでしょう。

なお、成都には他にも見どころやグルメがあります。詳細は下記の関連MEMOをご覧のうえ、旅行の参考としてみて下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/05/07 訪問

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