朝鮮由来の名窯・薩摩焼のふるさと〜日置市美山〜

朝鮮由来の名窯・薩摩焼のふるさと〜日置市美山〜

更新日:2016/02/27 11:04

鹿児島市街から北西に約20キロ。鹿児島市街の面する錦江湾よりも薩摩半島西岸の吹上浜に近い山間に、鹿児島県で最大の薩摩焼の産地があります。それが美山です。
慶長3(1598)年、薩摩を代表する戦国武将として知られる島津義弘が朝鮮での戦が終わり引き上げる際、朝鮮の陶工たちも連れて帰りました。その陶工が移り住むことになった里の一つが美山でした。開窯以来、窯の火を絶やさず現在も薩摩焼の里として知られます。

薩摩焼について

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天下統一を果たした豊臣秀吉が次に目標に掲げたのは、明の征服計画でした。朝鮮には日本に従属してもらい、明への案内役を依頼する予定でしたが、朝鮮がこれを拒否。日本軍と朝鮮軍の戦争である文禄の役が文禄元(1592)年より約1年、そして再出兵による慶長の役が慶長2(1597)年から秀吉が亡くなる翌年まで行われました。

薩摩焼は、島津義弘が文禄・慶長の役から帰国する折に、朝鮮から陶工を連れ帰り、陶業を開かせたことに始まります。薩摩のみならず、九州ではこぞって同様のことが行われ、これは“やきもの戦争”と呼ばれました。朝鮮出兵にはこうした副産物があったのです。

さて、こうして焼かれ始めた薩摩焼には、主に2種類あります。磁器の白薩摩と陶器の黒薩摩です。白薩摩は、象牙色の素地に細かな貫入が見られるのが特徴であり、のちに京焼の繊細な絵付けが取り入れられ、華やかなものとなりました。こうしたことから、白薩摩は薩摩藩御用達の上手物として、庶民からは遠い存在だった過去があります。

一方、黒薩摩は下手物、日用雑器が多く焼かれた陶器で、庶民に親しまれる存在でした。鉄分の多い陶土を用い、黒釉を掛けたものが一般的です。素朴な味わいがあります。写真は、代々薩摩焼を牽引してきた沈壽官(ちんじゅかん)窯で見られる黒薩摩壺です。釉掛けされた黒色がより壺の堅牢さを引き立たせているように見えます。

焼き物の里で意外な出合い「元外相東郷茂徳記念館」

焼き物の里で意外な出合い「元外相東郷茂徳記念館」
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沈壽官窯の奥には、陶工の末裔に生まれ政治家となったのち、太平洋戦争終結に奔走した外相・東郷茂徳の記念館が彼の生家跡に立ちます。東郷茂徳とは、昭和16(1941)年に発足した東条英機内閣、そして昭和20(1945)年に発足した鈴木貫太郎内閣の外相だった人物です。

東条英機内閣からの入閣要請には「戦争をしないこと」を条件にしてこれを受けましたが、アメリカが暫定協定案として提示した“ハル=ノート”の内容を読み、「長年にわたる日本の犠牲を無視し、極東における大国の地位を捨てよというのである…、これは日本の自殺に等しい」と考え、東郷含む日本指導部はこれを最後通牒とみなして開戦の決意を決めました。

東郷は東条内閣の下、戦争終結への工作を試みるも果たすことができず外相を辞職。東郷内閣は総辞職しますが、次の小磯国昭内閣が戦争へと邁進してしまいました。戦局悪化、和平交渉失敗により小磯内閣も総辞職。重臣会議での推薦、昭和天皇直々のお願いにより戦争終結のための鈴木貫太郎内閣が発足。組閣に際し「軍部を抑えて戦争を終結に持っていけるのは東郷しかいない」と再び入閣要請があり、入閣したのです。

ドイツ・イタリアが降伏し、日本の無条件降伏を旨とするポツダム宣言が発表されます。東郷は、日本がこの先も天皇のもとに連綿と続いてきた日本であり続けるため、天皇陛下の地位、国体に変化が無いことを前提としてポツダム宣言を受け入れるべしと主張。昭和天皇の同意を取り付け、ポツダム宣言の受諾、戦争終結となりました。

戦争が終わった翌年の昭和21(1946)年、連合国が戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われました。戦争終結への努力も虚しく、東郷はA級戦犯に指名されて昭和23(1948)年に禁固20年の判決が下されます。そして、昭和25(1950)年に67歳で病死しました。

太平洋戦争について、東京裁判について、改めて考えさせられる資料館です。薩摩焼の里として訪れると異質に思えますが、こうした出合いも旅の副産物と言えるでしょう。なお、資料館の奥では薩摩焼の里らしく薩摩焼に関する資料展示も見られ、薩摩焼の予習にふさわしい場所となっています。

各窯の即売展示と陶芸体験「美山陶遊館」

各窯の即売展示と陶芸体験「美山陶遊館」
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さて、沈壽官窯のある通りまで戻り、保育園のある丁字路を南進すると美山陶遊館という建物があります。美山にある窯の作品を集めて即売展示をしています。白薩摩、黒薩摩、伝統を生かしたモダンな現代作品から伝統にとらわれない新しい作品まで、様々を通覧できる魅力があります。

また前日までに予約をすれば、ロクロ体験、手ひねり体験、絵付け体験など陶芸体験が楽しめます。用意する物は無く、作りたいものがあれば予約時に相談も可能なので、ここで旅の思い出の品を作ってみるのも良いでしょう。

薩摩焼の歴史を静かに語る「玉山神社」

薩摩焼の歴史を静かに語る「玉山神社」
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美山の集落から少し離れた静かな森の中に鎮座するのが玉山神社です。慶長10(1605)年に朝鮮の始祖とされる檀君を祀り創建され、故郷に思いを巡らせながら異国の地で陶磁器を焼き続けた朝鮮の陶工たちの心の拠り所となりました。

薩摩焼は薩摩藩の手厚い庇護を受けてきましたが、灯籠や手水舎の水盤などから見られるように神紋が島津家の家紋同様の丸十紋であり、玉山神社も薩摩藩からの庇護を受けていたことを窺わせます。

陶工たちは朝鮮から連れて来られましたが、これは換言すれば強制連行でした。薩摩での開窯という悲願を達成させた義弘は、強制連行をした彼らにせめてもの報いとして手厚い庇護を行い、生活・信仰のあり方も自由にしたのです。現在、神社は陶器守護の神として崇敬されていますが、今も名残りとして朝鮮風の祭事が行われています。

多彩さも薩摩焼・美山の魅力です

ここまで、美山の施設や名所を紹介しましたが、もちろん美山の醍醐味は薩摩焼の窯元めぐりです。

伝統的な黒薩摩の酒器は健在し、湯呑み、皿、小鉢、カップに片口などの普段使いできる物も多数あります。白薩摩も細かな色絵に金襴手の施された壺や、透かし彫りの技巧的な香炉が主に焼かれていたのは昔のこと。日用品も増え、食卓を華やかにしてくれること請け合いの磁器が見つけられます。

その一方で、こうした白薩摩・黒薩摩の技法や特徴を背景に新しい取り組みも行われ、白とも黒とも分類できない新しい薩摩焼や、モダンな薩摩焼も誕生しています。また、多彩な釉薬を用いたり、焼締を製作したりと薩摩焼という伝統にもとらわれない食器を焼く窯元も増えました。今では、この多彩さも薩摩焼の魅力です。

魅力的な陶磁器は人を呼び、里には飲食店や喫茶店、雑貨屋も点々と現れるようになりました。窯元を訪れて焼き物と触れ合ったり、史跡をめぐったりするだけでなく、喫茶店で足を休めたり、雑貨を楽しみながらゆったりと里を味わうことができるのも美山の魅力です。

美山で過ごす休日、いかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。

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