日本を近代化に導いた島津家を垣間見る〜鹿児島・仙巌園〜

日本を近代化に導いた島津家を垣間見る〜鹿児島・仙巌園〜

更新日:2016/02/22 11:43

仙巌園とは、薩摩を治めた島津家19代当主で薩摩藩第2代藩主の島津光久が別邸として築造した御殿を備えた庭園です。桜島を築山に、眼前の錦江湾を池泉に見立てた雄大な庭園になっています。

また、幕末には欧米列強に対抗するべく、新たな技術を研究・製造していた工場群・集成館とも隣接しており、庭園内にもこうした事業を垣間見ることのできる場所が多く見られます。今回は、仙巌園とともに集成館の遺構をご紹介します。

さっそく現れる薩英戦争ゆかりの「鉄製150ポンド砲」

さっそく現れる薩英戦争ゆかりの「鉄製150ポンド砲」
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受付を抜けて、最初に現れるのが鉄製150ポンド砲(複製)です。集成館の高炉で鉄鉱石から取り出された銑鉄を用いて、同じく集成館にある反射炉で鋳造された要塞砲であり、鹿児島沿岸に配備されて文久3(1863)年の薩英戦争でもその威力を発揮しました。

製造に成功したのは、安政4(1857)年。このことから日本で初めて洋式高炉で銑鉄精錬をしたと考えられており、日本の近代化にも大きくかかわる薩摩藩での近代化事業の大きな一歩となりました。

集成館事業の真骨頂でした「反射炉跡」

集成館事業の真骨頂でした「反射炉跡」
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150ポンド砲の背後には、反射炉跡があります。炉内の湿気を下部から逃がすために横穴を設けた石垣の上に建てられていたとされ、現在は石垣と基礎部のみが残っています。
反射炉は佐賀藩からオランダの大砲鋳造書の翻訳を譲り受けたところから始まり、嘉永4(1851)年に反射炉ひな形を完成させ、嘉永6(1853)年に1号炉が完成したが失敗。安政3(1856)年に2号炉、翌年に3号炉が完成しました。

石が横向きに簀の子上に配列された部分が通気用の炉下空間、つまり炉内の湿気を下部へ逃がすための部分です。傾斜部は灰穴の灰落としで、この上に石炭等の燃料を燃やしながら風を炉内へ入れる部分がありました。風が炎を導き、煙突から抜けるのです。

欧米列強に強い危機感を抱き、この集成館事業を推進した島津家28代当主で第11代藩主の島津斉彬は安政4年11月29日の福井藩主・松平春嶽への書簡に「こんど反射炉も十分にできて、大よろこび」と記しており、斉彬の喜びのほどが窺えます。

島津家の暮らしを感じる「御殿」

島津家の暮らしを感じる「御殿」
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庭園の中央に御殿が立ちます。薩摩藩第2代藩主・島津光久によって築造されて以来、江戸期は薩摩藩主・島津家の別邸として、明治期からは本邸として利用されました。かつては約60室を擁しましたが、現存しているのはその3分の1にあたる20室程度です。現存の3倍の規模を誇ったと想像すると圧巻です。

有料のガイドツアーに参加することを条件に建物内の見学が許されます。島津家30代当主・島津忠重が幼少期に使用していた床の間、29代当主・島津忠義が寝室として利用していた部屋、忠義が庭園を見晴らす景色の良さから居間として利用していた部屋、謁見の間などが見られ、多彩な釘隠しも一興です。

たおやかな美しさ「曲水の庭」

たおやかな美しさ「曲水の庭」
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御殿から園内を流れる保津川を渡った先、庭園の高いところには曲がりくねった水路に石組を配した遣水を2筋、流した庭園があります。こうした庭園は、よく曲水の庭と呼ばれます。仙巌園にある曲水の庭は、江戸時代の姿をとどめる日本唯一で最大とされる存在です。

仙巌園の曲水の庭は、曲水庭園発祥地である中国にあったと伝わるものを意識して、島津家21代当主で第4代藩主の島津吉貴の時代に作庭されたものと考えられています。たおやかな美しさが見る者を魅了します。

遣水の先をたどると、曲水庭園の姿から一変して岩の間を縫って下る険しい渓流のような姿へと変わります。この対比も仙巌園の曲水の庭の面白さと言えるでしょう。

幕末・薩摩藩の英知の結晶「尚古集成館」

幕末・薩摩藩の英知の結晶「尚古集成館」
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仙巌園に隣接する尚古集成館は本館と別館があり、本館は慶応元(1865)年に建てられたかつての集成館の機械工場で、国の重要文化財です。日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築でもあります。館内では、島津斉彬が安政5年に幕府へ宛てた建白書や大砲、紡績機械を展示しながら、薩摩や島津家の歴史、集成館事業について紹介しています。

富国強兵・殖産興業の観点から嘉永4年に反射炉のひな形とともに製煉(せいれん)所を造り、医薬、金銀メッキ、綿火薬、陶磁器用釉薬、洋酒類、パン、玉味噌、絹・綿布をさらす方法などを研究・製造しました。これらの研究が安政4年に現在の磯地区の工場群「集成館」に移されて工業化したのが集成館事業でした。

これが蒸留法や紡績工業普及の端緒を拓き、陶磁器の改良、ガス灯の開発、色ガラス製造などの様々な成果を上げ、明治期より全国で推進される殖産興業に大きな影響をもたらしたのです。これらを強く推進した斉彬がいかに開明的で、近代日本に欠かせない人物だったのかがよく判ります。

なお、集成館は文久3年の薩英戦争によって反射炉を除いてすべて焼失してしまいました。薩摩人のショックは大きく、その後、急速に集成館は復興されましたが、復興された集成館は機械製作に力を入れるようになります。機械工場の完成は慶応元年。これが現在の尚古集成館になります。

今や仙巌園は世界遺産です

2015年、明治期の日本の近代化を偲ぶことのできる産業遺産群が「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。構成資産には、仙巌園内の反射炉跡、尚古集成館(正式には、旧集成館機械工場)も含まれます。これは、薩摩の近代化事業が世界という枠組みにおいても高く評価されるものであったということを示しています。

世界遺産とともに、これを醸成した風土はどうだったのか、これに関わった人物はどんな暮らしをしていたのか、仙巌園で感じてみてはいかがでしょうか。

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