市街の巴波川沿いに、妻入りの石蔵が2つ並び、これに挟まれるようにして商家が立っています。栃木有数の麻苧(あさお)問屋として知られた豪商・横山家の資料館、横山郷土館です。
商家(写真)と2つの蔵からなる建物は、道から見て右半分が麻苧問屋、左半分が明治32(1899)年設立の栃木共立銀行に分けられ、出入口も別々にしてあります。したがって、右の石蔵は麻苧問屋のための麻蔵として利用されました。左の石蔵は文庫蔵です。
中に入ると、栃木が麻の大部分を産し、その一大集荷地として栃木の名が全国に知れ渡った歴史を紹介しています。銀行側は当時の面影をよく再現し、商家の奥部、日本庭園の広がる中庭の向こうには、離れの洋館まであります。こちらも必見です。
横山郷土館から裏手すぐの場所に栃木市役所別館があります。竣工は大正10(1921)年11月、町の技師・堀井寅𠮷の設計です。柱を水色に塗ったハーフティンバー(柱などがむき出しになっている様式)の外観で、縦長の窓が特徴です。ルネサンス様式の影響を受けたデザインになっています。
擬洋風なのに屋根は桟瓦葺きであったり、時計塔が変わった場所に斜め向きに付いていたりするのが風変わりに感じますが、突如として現れる堂々とした近代建築の佇まいに圧倒されます。
横山郷土館の東方には、蔵を利用した美術館もあります。とちぎ蔵の街美術館です。2階建て桟瓦葺き、黒漆喰の蔵が3連も続きます。2階には観音開きの窓が2つ付き、窓の戸を全開すると隣り合った戸がぴたりとくっつくようになっているようです。匠の技と言えるでしょう。
右の東蔵は文化年間(1804〜1818)初期、中蔵は天保2(1831)年以前、左の西蔵は天保11(1840)年。多くの蔵が残る栃木で最古の土蔵群とされています。
江戸期から続く、米など扱うほか大名相手の質屋を営み豪商となった善野家の土蔵で、“おたすけ蔵”の名で知られていました。由来は、江戸末期に困窮人救済のため多くの銭や米を放出したことからとも、失業対策事業として蔵の新築を行ったためとも言われています。
床はフローリングできれいにされていますが、柱なども蔵の構造そのままを生かしています。市民に愛される美術館も、建物自体が一個の美術品です。
とちぎ蔵の街美術館から北へ向かうと、古い建物がよく残る地区に至ります。嘉右衛門町伝建地区と呼ばれ、江戸後期から昭和初期にかけて建築された建物が数多く残る通りです。この通り沿いに、代々この地区の当主を務めてきた岡田家の建物が岡田記念館として見学できるようになっています。
この建物が素晴らしいのはこの岡田記念館の別館、岡田記念館翁島別邸です。巴波川沿いの記念館よりやや離れた位置にあります。26代目の現当主から3代前の22代・岡田孝一が自身の隠居所を造るため構えたのがこの建物です。
東京木場で吟味の上、買い付けた用材で町の工匠たちに依頼して大正3(1914)年着工し、13(1924)年に竣工しました。工期10年です。今では、栃木市における大正期の木造建築を代表する存在となっています。天井に扇垂木のような材が張り出し、湯気が落ちないように設計されたという浴室も面白く、柾目の通った柱、趣ある座敷からも材を厳選したことが窺われます。
とちぎ蔵の街美術館からさらに東、栃木のメインストリートである蔵の街大通りに沿って立つ山本有三ふるさと記念館で紹介は最後になります。こちらの建物も土蔵造り。江戸期からのものを整備し、栃木市が輩出した文豪・山本有三の業績を紹介しています。
館内の落ち着いた雰囲気が心地よく、代表作『路傍の石』執筆までの生い立ちや、その後の政治家としての姿を細かく紹介しており、予備知識が無くても有三がどのような人物だったのかよく分かります。
有三は勉学を志して栃木を出ましたが、75歳の時に栃木の大平山に『路傍の石』の一説を引用した文学碑を建立し、故郷・栃木をこよなく愛して86歳でこの世を去りました。文学碑に刻まれた言葉がこちらです。
たった一人しかない自分を
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら
人間生れてきたかいがないじゃないか
栃木は、生かされ続けている建物とともに、それに関わるさまざまな人々の生き様にも触れることができます。小江戸栃木、いい町です。
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(2024/4/23更新)
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