写真:六三四
地図を見る大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)、琉球館附役の薩摩藩下級武士・大久保利世の長男として生まれました。鹿児島城下で西郷さんらと学び、その後薩摩藩の重責を任され、明治維新の立役者にもなりました。西郷隆盛、長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称されたというのは皆さんもご存知の事と思います。
さて、この大久保利通ですが「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」「辛抱強い人で喜怒哀楽顔色に現はさない」など、大久保を知る人々からはこのように評されていました。『クール』そんな言葉がぴったりな大久保ですが、幼少の頃はそうではなかったようです。
大久保利通の伝記『大久保利通傳(おおくぼとしみちでん)』には、鹿児島の温泉地で過ごす大久保の意外な一面が描かれています。その中のひとつが、今回ご紹介する古里温泉での大久保の行動でした。
写真:六三四
地図を見る大久保は十二、三歳のころ桜島(標高1,117m)にある古里温泉を訪れています。大久保少年が湯治に訪れた頃の桜島観光と言えば桜島登山。残念ながら現在は観光客が行く事が出来るのは湯之平展望所(標高373m)まで。ゴツゴツとした溶岩石に覆われた桜島を間近に見る事が出来るこのビュースポットには、毎年多くの方が訪れています。
この荒々しい山肌を登った大久保利通。「大久保利通傳」には次のように書かれてあります。
“櫻島古里の温泉に到りし事もあり。一日、宿の主人彦作を案内人に爲して登嶽したり、桜岳の半腹は勾配頗る急にして、石を落下せんか、轉々飛躍する有様、人をして震慓せしむ・・・”
桜島では山で溶岩石を投げれば神罰が下ると伝えられており、案内人の彦作は大変恐れ、止めるように伝えます。しかし大久保少年はそれを聞かず、頂上から岩を投げ落とし喜んだそうです。またその後、彦作の労を慰めようと薩摩汁を準備し自分が給仕となります。ここまでは良かったのですが、何杯も何杯も彦作に与え困憊するのを見て喜んでいたともあります。
大久保少年恐るべし!
写真:六三四
地図を見る大久保少年の入った古里温泉の開湯は1700年代。安永8年(1779年)に起こった桜島安永大噴火で温泉が湧出したと伝えられています。噴火前海岸沿いの民家では井戸が煮えたぎり、海が紫色になったとの記録があり、温泉は溶岩の隙間から噴き出したそうです。発見された日が※釈迦の誕生日でもあったという事から「仏湯」とも呼ばれていました。
古里温泉は温泉湧出範囲が火山の麓にしては狭く、現在は2軒の宿があるだけ。そのひとつが古里温泉「桜島シーサイドホテル」。鹿児島では数少ない混浴露天風呂がある温泉宿です。
※釈迦の誕生日については灌仏会(かんぶつえ)と呼ばれている釈迦の誕生を祝う行事があるが、これは毎年4月8日に行わている。またインド歴第二の月、2月8日説など諸説ある。ちなみに安永噴火は1779年11月8日(旧暦)である。
写真:六三四
地図を見るシーサイドホテルの名の通り、錦江湾に面した宿の客室は全室オーシャンビュー。運が良ければ青い海を優雅に泳ぐイルカの姿も見る事が出来るとか。
温泉浴場は館内に男女別内湯と露天風呂、貸切湯、そして海に面した混浴の露天風呂。温泉ファンに支持を受ける泉質はナトリウム−塩化物泉。浴槽に注がれた温泉は緑がかった茶色の濁り湯で口に含むと塩分と鉄分、さらには炭酸系特有の発砲感もあります。
海面のきらめき、目を閉じれば波の音だけ、涼しい海風がやさしく頬を撫でていく癒しの露天風呂。そして保温効果抜群の源泉かけ流しの湯。
大久保利通も見たであろう古里温泉からの景色。天気が良ければ大隅半島や薩摩富士と呼ばれている開聞岳の眺望も。古里の湯につかれば幕末志士の熱い息吹が聞こえてくるかもしれません。
【温泉名】古里温泉
【施設名】桜島シーサイドホテル
【住 所】鹿児島県鹿児島市古里町1078-63
【泉 質】ナトリウム-塩化物泉
【適応症】きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症など
鹿児島には、幕末から明治にかけて明治維新の礎を築いた多くの志士ゆかりの温泉があります。今回ご紹介した桜島古里温泉の隣には、大正噴火で消失してしまった有村温泉という温泉地がありました。現在浴舎などはありませんが、海岸を掘ると温泉が湧き出してきます。実はこの有村は西郷さんゆかりの温泉。古里温泉訪問の際は有村温泉の湧出する有村海岸にもぜひ!
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(2024/4/23更新)
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