神(紙)頼みも!東京王子「紙の博物館」は歴史ミステリーも楽しめる知的スポット

神(紙)頼みも!東京王子「紙の博物館」は歴史ミステリーも楽しめる知的スポット

更新日:2016/02/02 12:27

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー
現代では、紙がない生活は考えられません。東京都北区王子にある「紙の博物館」は、そんな紙の重要性を気づかせてくれる、世界でも稀な“紙専門”の博物館です。古代、紙の製法はなんと“国家機密”で、パピルスも戦略物質だったのです。ここは紙にまつわるミステリーが楽しめる知的スポット。また、レアなお守りもゲットできます。ここで本当の神(紙)頼みもしてみましょう。

お頼み成就、無形文化遺産で作ったレアなお守り

お頼み成就、無形文化遺産で作ったレアなお守り

写真:松縄 正彦

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博物館入口を入ると、右手にユネスコの無形文化遺産に登録(平成26年)された手漉き和紙「細川紙」で作られたレアなお守り(写真)があります。まずこれをゲットしましょう。
細川紙は楮(こうぞ)のみで作られた光沢のある強い紙です。商売繁盛、健康など、文字通り強い紙で紙(神)頼みをする事で、強い運を”鷲(和紙)掴み”できるかも。中でも“かみ頼み”がおすすめですよ。

それでは、紙の歴史を中心として展示を見てゆきましょう。

パピルスがお出迎え

パピルスがお出迎え

写真:松縄 正彦

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まず3階に登りましょう。なんといってもここがお薦め場所です。あなたの知らない紙の世界が広がりますよ。

このフロアでは、まず大きなパピルスに書かれた画(写真)がお出迎えしてくれます。英語で紙はPaperですが、これはこのパピルスに由来する名称です。このフロアには紙が発明される前に世界中でつかわれてきた素材が一同に展示してあります。木簡、貝多羅(バイタラ)、羊皮紙などです。

貝多羅は木の葉を用いた記録材料で、古代インドでは仏典をこれに記録していました。あの三蔵法師が持ち帰ったのもこの貝多羅に書かれた仏典だったのです。また、アレキサンドリア大図書館に対抗する図書館を作ろうとした小アジア(現トルコ)の都市ペルガモンに対し、エジプトがパピルスの輸出を禁止(紀元前190年)した事で、代わりに”動物の皮”を用いた羊皮紙の開発が奨励されたともいわれます。ヨーロッパでは紙が普及する(なんと13世紀の事です!)まで、この羊皮紙が主に使われていたのです。

国家機密だった紙の製法

国家機密だった紙の製法

写真:松縄 正彦

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良く知られているように、紙は中国で発明されました。中国は朝貢してきた国にはその製法を伝えましたが、それ以外の国には伝えず、国家機密としていました。我が国には7世紀初頭までに、越前の「川上御前」あるいは、高句麗から来た僧の「曇徴(どんちょう)」などが製法を伝えたといわれます。

実はアジア以外の世界に紙製法が伝わったのは、戦争がきっかけでした。751年に唐とイスラム帝国が戦い(タラスの戦い)、唐側が敗北したのですが、この時、2万人も捕虜になりました。この中に紙の技術者がおり、まずサマルカンドに、また中近東へと紙製法が伝わり12世紀になってヨーロッパに紙製法が伝わったのです。

紙が伝わっていなければ羊皮紙(パーチメント:写真)の使用が中心のヨーロッパでは、グーテンベルグの印刷機の発明もなく、マルチン・ルターの宗教改革(聖書の印刷に活用)などの歴史も大きく変わっていたはずです。

展示室には、このような紙の伝来経路を記したパネルがなにげなく掲げられているのですが、見れば見るほど意味深い内容になっています。ちなみにタラスの戦いの唐側の指揮官は、日本とも関係があった(朝鮮半島で唐に滅ぼされた)“高句麗系の武将”でした。 歴史にifはないとよくいわれますが、もし高句麗が滅びなければどうなっていたのでしょうか?この辺りの歴史の偶然も、知れば知るほどワクワクし、知的な刺激を受けるはずです。

なお、博物館でこれら紙の歴史を記した資料が販売されていますので、併せてお読みください。

聖徳太子も紙に貢献

聖徳太子も紙に貢献

写真:松縄 正彦

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先のお守りには和紙が使われていましたが、和紙には独特の風合いがあり素材としてもたまらない魅力があります。これらの和紙の生産を最初に奨励したのは、あの「聖徳太子」でした。太子は仏教の普及に力を入れましたが、仏典の写経には紙がかかせません。そのために和紙の材料である、楮(こうぞ)の生産に力をいれたのです。

また驚くべきことに、年代が分かっている世界最古の印刷物は、実は日本製。770年に造られ、法隆寺など十大寺に収められた「百万塔」。この中に収められた「陀羅尼経」(木版あるいは銅版印刷物/写真)がそれです。こんな古い紙が残っているのも和紙ならではです。また3月に東大寺のお水取り(修二会)がおこなわれますが、このときに僧が着ているのも紙の衣なのです。

3階ではこれら和紙材料、百万塔陀羅尼経、紙衣などから和歌などに使われる継紙など、日本文化を支える素材であった和紙のすべてを知る事ができます。また1階に行きますと、洋紙を含め、いろいろな種類の紙や紙を製造する機械も展示されており、見ればあなたも“紙博士”になる事ができます!

王子は洋紙の発祥の地

日本で洋紙が生産されるようになったのは明治時代です。渋沢栄一が、国内で初めて洋紙を大量生産する会社「抄紙会社」を王子につくったのです。渡欧した渋沢は大量の紙を眼にし、“紙はヨーロッパの文明の源泉”の1つであるという思いをいだいたといわれます。

実は王子に工場を作った理由の1つは、紙原料である衣類の木綿のボロが入手しやすかったからなのです。欧州でも木材を原料にする前は衣類のボロが紙の原料でした。ちなみに現在のような木材を原料にするようになったのは”ハチの巣”がヒントになりました(館内で詳細をご確認下さい)。

王子の駅前にはこの洋紙生産を記念した碑がありますが、紙の博物館がある飛鳥山は渋沢邸があった場所でもあり(渋沢栄一の史料館もあります)、この地に紙の博物館があるのもこのような背景があるのです。
しかし、生涯に会社を500も作ったとされる渋沢栄一、彼には紙(神)頼みは不要だったのかもしれませんね。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/01/26 訪問

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