スキー発祥の地・上越市高田「金谷山」レルヒ少佐とスキーの歴史を知ろう!

スキー発祥の地・上越市高田「金谷山」レルヒ少佐とスキーの歴史を知ろう!

更新日:2016/01/11 18:27

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー
冬のレジャーといえばスキーですが、日本のスキー発祥の地は豪雪地で有名だった新潟県の上越市高田です。雪の上を歩く“かんじき”しか無かった時代、雪国の生活を一変させたのがスキーで、伝えたのはオーストリアのレルヒ少佐でした。金谷山スキー場でこのスキーの歴史を知る事ができます。またこの地には会津藩士の墓もあり、秘められた歴史の一コマを知る事もできます。

豪雪地帯の生活を開放したスキー

豪雪地帯の生活を開放したスキー

写真:松縄 正彦

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高田といえば豪雪地帯で有名です。昔の教科書にも”この下に高田あり”と銘うって、電柱の頭だけが出ている写真が出ていました。いまでも“雁木”にその面影を見出す事ができます。
雪国の冬は暗く、家屋の中で囲炉裏を囲んで暖をとるのが精いっぱいで、外に出るのも蓑を着てかんじきを履き、道をつけながら歩くという重労働でした。

こんな豪雪地帯にスキーを伝えたのがオーストリア・ハンガリー帝国の”レルヒ少佐”です。少佐は日本陸軍の視察のために来日し、高田の師団に配属されたのですが、師団将校に営庭でスキーを教えたのがその始まりです(明治44年)。また師団長が、このスキーを民間にも積極的に普及させる、という英断を下した事がその後の普及に大きな貢献をしました。
高田の金谷山スキー場にはそれを記念し、「大日本スキー発祥の地」(写真)という記念碑が建てられています。またレルヒ少佐は男性だけでなく将校夫人達にもスキーを教えたようで、その写真がいまでも残っています。

このようにスキー伝来は、閉じこもりがちだった日本人の冬の生活を開放した、まさにビッグ・イベントだったのです。

日本スキー発祥記念館

日本スキー発祥記念館

写真:松縄 正彦

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レルヒ少佐の像(後掲)を見てください。現代のスキーでは両手にストックを持つノルウェー式ですが、当時のスキーは1本杖で操っていました。これは“リリエンフェルト式”のスキー術で、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーが完成したものです。ちなみにリリエンフェルトはオーストリアの都市の名前で、スキー発祥という事から上越市と姉妹都市になっています(メモ欄参照)。

ところで、レルヒ少佐の素晴らしい所は単にスキー術を教えただけではなく、 “スキーツアーの楽しさ“や“雪上のマナー”を教えた事です。日本でスキーが急速に普及した背景にはこのような教えを直伝された弟子の方々の活動が大きいのです。レルヒ少佐の指導後、1か月もしないで日本最初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」が発足したのもこんな背景があります。

スキー伝来にまつわるいろいろな歴史などは金谷山の「日本スキー発祥記念館」(写真)で見る事ができます。またスキー用具や技術の変遷などを知る事ができ、レルヒ少佐の遺品なども展示されています。

レルヒさんのイベント〜スキースクールとお祭り〜

レルヒさんのイベント〜スキースクールとお祭り〜

写真:松縄 正彦

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金谷山にはレルヒ少佐の像(写真)が市内を見下ろす位置に建てられていますが、その反対側にリフトがあります。このリフトのある山裾で毎年2月にレルヒ祭が開かれ、レルヒ祭限定のスキーレッスンが行われたり、花火などが打ち上げられます。

また日本全国にスキー場は数百ヶ所ありますが、新潟県は本州で最もスキー場の数が多い県の1つです。この新潟県内のスキー場で行われているのが、レルヒ少佐にちなむ“レルヒさんスキースクール”です。
子供と一緒にスキーを楽しみたい、そんなファミリーにお勧めのスクールで、なんと小学生が無料というお得なスクール。1月から3月にかけて各スキー場で土日に開校されますので、各スキー場に詳細を問い合わせし、ぜひご参加ください(メモ欄参照)。

もう1つの金谷山〜会津藩士の墓〜

もう1つの金谷山〜会津藩士の墓〜

写真:松縄 正彦

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金谷山はスキーと関係の深い場所ですが、実はもう1つ歴史の舞台とも関係しています。それはあの「八重の桜」の戊辰戦争で、関係した会津藩士の墓「会津墓地」がここにあるのです(写真)。

戊辰戦争終結後の1869年1月、厳寒の中1,740人余りの会津藩士(主に城外で戦った藩士)が高田藩に護送され、寺町の約60の諸寺院に収容されて謹慎生活を送る事になりました。
しかし当時、高田藩自身も財政がひっ迫するなど苦しい立場にあった上、気候不順で凶作が重なります。このような中、健康を害する方々も多く、藩では医療所を開設するなどの手をつくしたのですが、謹慎が解けるまでに約70名の方が亡くなられこの地に葬られたのです。また謹慎解除後も高田に在住した約30名の方もここに葬られています。

また当時から現在まで、地元の方々がボランティアでこの場所を保全維持管理しているのもこの墓地の大きな特徴です。上越市は、かの親鸞聖人が上陸され浄土真宗を普及された地で、寺町は今でも60余のお寺が存在する日本でも稀な町です。この信仰心の高さがこのような行為の背景にあるといっても良いでしょう。
このお墓へは音羽館側ではなく、関根学園側から金谷山へ登る道をご利用下さい。

歴史の表と裏を感じさせる金谷山

スキー発祥という歴史の表舞台、その傍に”秘められた史跡”としてひっそりと存在している会津墓地。金谷山は明治という近代化に突き進んだ歴史の表と裏を感じさせる場所なのです。
ちなみに市内にはレルヒ少佐が配属された師団の師団長(長岡外史中将)官舎「旧師団長官舎」も残されています。そちらへもどうぞ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/12/10 訪問

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