芭蕉も舌を巻いた稀代の俳諧師・井原西鶴を谷町筋(大阪)にたどる

芭蕉も舌を巻いた稀代の俳諧師・井原西鶴を谷町筋(大阪)にたどる

更新日:2015/12/22 17:47

大阪・谷町筋で活躍した浮世草紙の作家・井原西鶴には、もうひとつの顔があり、芭蕉も舌を巻く元禄期を代表する俳諧師エンターティナーでした。
そんな西鶴の俳諧師としてのデビュー地の生国魂神社、墓地の誓願寺、終焉の地の鑓屋町と、すべてが谷町に凝縮した感のあるゆかりの地を訪ね、江戸元禄期の俳諧師の心意気をしのぶ旅に出かけましょう。

谷町筋の南北のかなめ・生玉神社と大阪城

谷町筋の南北のかなめ・生玉神社と大阪城
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谷町の地名は、上町台地を西へ落ち込む谷地であることに由来します。
大阪城から南に走る谷町筋は、1丁目から9丁目まであり、1丁目から3丁目は大阪城大手門に西隣し、8丁目と9丁目は寺町で、西隣の(生玉筋中寺町)にかけて寺院が密集します。
近世においては、天満橋交差点から高麗橋までが1丁目、思案橋通までが2丁目、内本町通までが3丁目で、東側は大坂城大手前の武家屋敷となっていました。

現在の大阪城天守閣周辺は蓮如によって築かれた石山本願寺本坊があり、信長の石山の攻めの際に激戦の地となり、1580年(天正8年)に石山合戦の戦火により焼失してしまいます。

しかし、この地は戦略上重要な地点であったため、3年後の天正11年、秀吉による大坂城築城に際し、彼は門徒宗と和解したうえで、300石の社領を寄進する取引をして社殿を造営。1585年(天正13年)現在の生玉の地への遷座を実現したのです。

このときに造営された社殿は「生国魂造」と呼ばれ、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものでした。

1615年(元和元年)には大坂夏の陣の兵火にかかりましたが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進されました。

神武東征の際に、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まったという伝承がいにしえの昔よりあり、難攻不落の石山本願寺にはそんな宗教的オーラと地政的な意味あいが込められていたのです。
延喜式神名帳には「難波坐生國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列しています。

大阪の谷町筋はそんな土地柄。戦国から江戸時代にわたる政治と宗教をつかさどる二つの強烈な磁場を形成してきました。

俳諧師・西鶴デビューの地、生玉神社

俳諧師・西鶴デビューの地、生玉神社
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現在、結婚式場としてにぎわう生玉神社の境内には、大阪城を守護する目的で建てられた北向八幡宮をはじめ、浄瑠璃神社、家造祖神社、鴫野神社、目ひとつの鍛冶屋神を祀る鞴(ふいご)神社などがあります。

また織田作之助像はじめ、なにわ文学にゆかりある各種文学碑がちりばめられています。が、そんな中にひときわ光彩を放つ像があります。それが井原西鶴像。
それは、庶民の文芸として、見世物遊戯性の高い大矢数俳諧を興行し俳諧の息の根をとめてしまったほどの西鶴を育てた地である生玉神社南宮跡地に建てられており、彼の都会人俳諧師としての眼力のするどさと包容力をあわせもつその人となりを見事にあぶり出しています。

その俳諧は極度の集中力を持続させながら、連句の規則をしっかりとまもり、かつ、加速的に発句、付句を吐き出していくもので余人の追随を決してゆるさぬスリルに満ちた素晴らしいものでした。
この像の前に立てば、田舎俳諧師・松尾芭蕉ができれば会いたくなかった才人であったことが、たちどころに理解できる風格の持ち主であったことがしのばれます。

誓願寺にある西鶴の墓所

誓願寺にある西鶴の墓所
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谷町9丁目地下鉄の駅からほど近いところにある誓願寺には、西鶴の墓があります。
彼は、浮世草紙で時代の寵児となりながらも、生涯を俳諧師として貫き、晩年は都会的な単独者として生き、孤独死に近い生涯を終えます。その生涯は粋そのもの。
傍らの黒御影石の碑には「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」と西鶴の句が刻まれています。

貨幣経済に席巻される都市の下層民としての生き方を貫いたそんな西鶴の墓石は、谷町筋のかどの誓願寺の無縁墓の中に紛れていたものを見つけ出し再建したものです。

近くの谷町8丁目の路地奥には近松門左衛門の墓もあり、この谷町筋の寺町界隈がなにわ人の死者の谷であったことがうかがわれます。

若妻の死で家業を手代に譲り、法体となった西鶴の隠棲地

若妻の死で家業を手代に譲り、法体となった西鶴の隠棲地
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3人の子を残して25歳で病死した若妻を悼む追善歌仙「一夜千吟」には、西鶴の偽らざる愛情が滲んでいて胸をうちます。
それを、シュールレアリズムにおける自動手記も顔負けのトランス状態に近い形で詠みあげた西鶴は、その年のうちに出版し、法体となり隠棲し、俳諧一筋に生きる決意をします。

やがて西山宗因の談林俳諧の旗手として、その2年前に敢行した生玉万句の続編、1夜1日四千句と次々に興行を打ち上げ、阿蘭陀(おらんだ)流と貞門の俳諧師から揶揄されながらも俳諧師としても時代の寵児となっていきます。
芭蕉の高弟で都会派俳諧「江戸座」の創始者・其角は、同じ都会人の感性の持ち主で芭蕉より肌が合ったようで、西鶴の万句興行にも関心が高く、オブザーバー参加したりしています。

居並ぶ聴衆は、彼の才気あふれる速吟に大笑いしたり、彼のひねり出すリズム感あふれる俳諧を口真似するものもいたりして、興行的にはいつも大成功だったと伝えられています。

そんな油の乗り切った時代に住んでいた場所が、鑓屋町。大阪城大手門から西へ数百メートル行ったところにあります。
生家は残っていませんが、谷町3丁目の交差点近くに西鶴終焉の地の石碑があります。
妻の死を迎えた35歳前後からこのあたりにして隠居し、おそらく52歳で死ぬまで俳諧三昧、文学三昧の生活を送ったものと思われます。

写真は鑓屋町1丁目付近から東の谷町3丁目交差点方面を望んだもの。

まとめとして

土地の記憶は時代とともに薄れていきますが、旅の楽しさはそんな場所を訪れて求めているもののささいな痕跡を探し出す喜びでもあります。1人の歴史上の人物を訪ねる旅もまさにそんな楽しみに裏打ちされたものです。ふと思い立てば、半日でも可能なビッグトレイルですので、ぜひトライしてみてください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/11/14 訪問

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