明治時代になって山形城を接収した陸軍によって山形城の建物は壊され、本丸や内堀は埋め立てられてしまいました。そして戦後は霞城公園として一般公開されていた山形城跡ですが、近年古絵図や古写真を元に当時の姿を完全木造復元する町を挙げてのプロジェクトが進行しています。
その第一弾がこちら、昭和62年から約8年の歳月をかけて復元された「二の丸東大手門」は、山形城の顔とも言えるでしょう。当時日本最大の城郭だった「江戸城」の城門にも劣らないと言われたこの巨大城門は、復元以来 時代劇の撮影で使われることも多く、2014年の映画「超高速参勤交代」のラストシーンで湯長谷藩士たちがボロボロになりながら到着した江戸城門のシーンも、ここで撮影されました。門の中には映画撮影時の様子を紹介したパネルもありますよ。
二の丸東大手門に続いて、現在は本丸で復元工事が進んでいます。山形城ではいわゆる「天守」は上げられず、本丸には城主らが住む「本丸御殿」が建てられていました。その本丸の玄関に当たる「本丸一文字門」が、木橋や内堀とともに見事に復元されています。
現在は門の入口にあたる高麗門と、その奥にある「桝形(ますがた)」と呼ばれる空間が復元され、かつて右側の一段と高い石垣の上に築かれていた巨大な「一文字門」はまだ復元には至っていませんが、いずれは東大手門のような見事な復元が期待されています。そして本丸内ではかつて陸軍が埋めてしまった部分を掘り返し、かつての御殿や井戸跡などが出てきている様子が見られます。
山形の町の基礎を作ったのは、地元の戦国武将・最上義光(もがみ・よしあき)公です。かねてから秀吉を良く思っていなかった義光公は関ヶ原の戦いの際に東軍(徳川軍)となり、西軍の上杉軍を撃退。その功により徳川家康から出羽五十二万石を与えられ、山形城を大拡張し山形の街の基礎を築き上げました。
その後、最上一族が山形に居たのは僅か3代・20年間ほどで、その後多くの大名が代わる代わる山形を治めてきましたが、今も山形で一番人気なのは山形の街の基礎を作った初代山形藩主・最上義光公なのです。城内には騎馬に乗り今にも戦場へ駆け出そうとする勇猛な義光公騎馬像があり、その人気の高さが伺えます。お城の横には「最上義光歴史館」もあり、義光公が実際に織田信長から拝領した兜など、貴重なゆかりの品々を拝見することができます。
山形城は前述のとおり、明治の陸軍統治時代に殆どが埋め立てられてしまいました。そんな山形城で僅かに残る「当時の遺構」の一つに、二の丸の周りをぐるりと囲んでいる二の丸堀があります。石垣と土の壁で掘られた「お堀」は、当時はお城を守るため、今は市民の憩いの水場として、400年に渡って生き続けています。駅からお城までの道すがら、山形城のお堀沿いを歩いて、当時の風景を想像してみましょう。
JR山形駅の脇にそびえる山形のランドマーク「霞城セントラル」。ちょうど山形城と山形駅の間に立地しています。その霞城セントラルの最上階にはビルの四隅にそれぞれ「展望ロビー」があり、北側のロビーからは山形城全景が見事に見渡せる絶好のお城眺望スポットになっています。山形城を訪れたら、霞城セントラルの展望ロビーも忘れずに訪れましょう!
また、4月から11月の土日祝の昼間のみ屋上の空中回廊も開放されていますので、運良く開放時間に訪れた場合は屋上からの絶景もお楽しみください。
最上義光公が築いた山形城は、現在のような立派な石垣を持つ城ではなく、土だけで造られたお城でした。立派な石垣が築かれたのは最上家の後に藩主となった鳥居氏の頃です。それでも城内では鳥居氏の名前はほとんど見られず、銅像も歴史館もすべて「義光公」なのは、信長・秀吉・家康といった天下人たちと同じ時代を生き抜き、一代で山形の大大名にのしあがり、山形の町の発展に寄与した義光公の人気の高さゆえです。山形に来たら最上義光公は外せません。山形に来れば最上義光公のファンになること間違いなし、あなたも山形で義光公が居た400年前に思いを馳せてみませんか。
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