知ると面白い!愛知県西尾・吉良上野介の菩提寺とゆかりの場所を巡る旅

知ると面白い!愛知県西尾・吉良上野介の菩提寺とゆかりの場所を巡る旅

更新日:2022/03/25 10:07

忠臣蔵の敵役として悪名高い吉良上野介義央(よしひさ)公。フィクションばかりか、リアルの世界でも悪役イメージを300年以上背負いました。ところが地元・愛知吉良町では治水事業などで「赤馬の名君」として慕われています。愛知西尾市の吉良家菩提寺周辺を訪ね、その実像に迫る旅はいかがでしょう。忠臣蔵の負のイメージとは異なる姿が見えてきます。緑と自然が豊かな吉良公ゆかりの情報も合わせてご紹介します。

名君だった義央(よしひさ)公

名君だった義央(よしひさ)公
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吉良家菩提寺の華蔵寺(けぞうじ)前にある、吉良公が地元を巡回した際の乗馬像。馬体を含めた像全体の高さは1mほど。柔和な顔立ちで、忠臣蔵や赤穂浪士で紹介される「極悪人」には見えません。像台座の紹介文は、吉良町出身で「人生劇場」の作家・尾崎士郎の筆によるもの。52歳の上野介が吉良巡回時に華蔵寺で詠んだ歌を紹介しています。

「雨雲は 今宵の空にかかれども 晴れゆくままに 出づる月かげ」

「俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている。これこそ、いかにも名君の心境であろう。」と尾崎士郎は解説しています。

名君だった義央(よしひさ)公
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「赤馬の吉良公」の像は華蔵寺に隣接する花岳禅寺入り口にも尾崎士郎の碑と共に建っていますのでこちらもご覧ください。

松の廊下での刃傷事件があった元禄14年(1701年)の播州赤穂藩浅野家と吉良家の概要を比較してみましょう。

1. 年齢 吉良上野介(60歳)>浅野内匠頭(35歳)
2. 石高 浅野内匠頭(5万3,000石)>吉良上野介(4,200石)
3. 官位 吉良上野介(従四位下高家旗本)>浅野内匠頭(従五位上外様大名)
4. 財政 浅野内匠頭(塩田開発)>吉良上野介(大名に礼儀作法指導の謝礼収入)

年齢、石高、官位、財政など複雑ですが、吉良公は高家肝煎(きもいり)と呼ばれ、高家の中の3名のトップ、石高は低くても天皇に接見できる官位の高さを誇りました。

外様大名で財政力ある浅野家が、朝廷から江戸に下ってきた使者(=天皇の勅使)に対する饗応役(きょうおうやく=おもてなし係)を命じられ、吉良公は、これに礼儀作法の指導をするコンサル的位置でした。饗応役を担当する外様大名は、天皇の使者のもてなしに大金の「経費」を使います。更に、浅野家は吉良公に典礼「指導料」として大金を払わねばなりません。

藥医門の静かな佇まい

藥医門の静かな佇まい
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吉良公乗馬像から50mほど参道を登った華蔵寺の藥医門には、吉良公の命日12月14日が近づくと法要の案内がかかります。

一説では、浅野内匠頭の最初の勅使饗応役の「経費」は400両ほどだった言われています。ところが事件の前年は3倍の1,200両にまで高騰。物価も10年で倍以上になり、儀式も華美に。その儀式を取り仕切るのが吉良公。浅野家は、財政力があるとはいえ緊縮財政を進めており、また、山鹿素行の山鹿流兵学に傾倒し、武骨を旨としたのです。このため浅野家は「経費」を700両でおさめようとしましたが、1,200両を700両に削減するのは、簡単ではありません。一方、吉良公は「経費」を目いっぱい使ってもらい、饗応を成功させねばなりません。

1,200両と700両、吉良と浅野には理解しあえない溝があったのかもしれません。

吉良公の治水事業は、大名が務める勅使饗応役の「指導料」謝礼が重要な収入源です。こうして得た収入を工面して、有名な「黄金堤(こがねつつみ)」の治水事業を行ないました。治水事業により川の氾濫は治まり、良田に。吉良公の地元での評判は上がります。浅野と吉良、この2つの家は、接することなく分かれていく2本の線のようです。

藥医門の静かな佇まい
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門をくぐると30段ほどの急な石段がありますが、急峻で使用禁止。左右の坂道をゆるゆると回りながら登ります。

藥医門の静かな佇まい
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墓所は小高い山の中腹にあります。見渡すと足がすくむほどですが、吉良の平野が見渡せます。普段は静かな佇まいの華蔵寺ですが、12月14日には多くの参拝者が訪れます。

300年の悪役から解き放たれた穏やかさ

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登り切るとつややかな緑を背に御影堂があります。吉良公が50歳の時に作らせ自ら彩色したといわれる通常は非公開の吉良公木像が納められています。ゆったりと穏やかな表情です。

300年の悪役から解き放たれた穏やかさ
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吉良公の墓所は階段を上がったすぐ右手側にあります。

300年の悪役から解き放たれた穏やかさ
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大身の大名であれば一人の廟にも満たない面積に、吉良家の6名のお殿様の墓を含め、夫人など12名の墓や慰霊塔などが建っています。

刃傷事件後、浅野内匠頭は即日切腹、その後、後継擁立も不首尾。刃傷事件は、5代将軍綱吉の激怒を呼び、原因究明が行われないまま。主君の切腹に続き、浅野家は断絶。綱吉の激怒の背景には、生母桂昌院を従一位の官位にするための口添えを勅使に依頼しようとした矢先の事件だったという説も。綱吉が「生類憐みの令」のお触れを発したように、何事も武力で解決しようとする戦国時代を引きずる気風を嫌ったからかもしれません。

墓所の石碑に、現在、吉良と赤穂の人々がお互いに恩讐をのり越えて交歓していることは、喜ばしい限りと刻まれています。

吉良公建立の経堂がひっそりと

吉良公建立の経堂がひっそりと
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墓所から石塔越しに吉良公が寄進した経堂が見えて来ます。

吉良公建立の経堂がひっそりと
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この経堂(写真)は吉良公が、亡くなる2年前(1700年)に寄進したもの。今では吉良公が残した唯一の建物です。中には「鉄眼一切経」(仏教百科事典と言うべきもの)が保管されています。吉良公の三百回忌(2002年)に復元修理されました。瓦ぶきでしたが、創建時の柿(こけら)ぶきに戻され、質素な中にも落ち着いた気高い雰囲気を感じさせる建物。ぜひ、ご覧になってください。

「義理と人情」の町、吉良町の見どころ

「義理と人情」の町、吉良町の見どころ
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治水事業などで吉良に貢献した吉良公、塩田開発などで赤穂藩の繁栄を目指した浅野家、それぞれの地元で名君です。赤穂浪士は赤穂「義士」とも呼ばれ、義のために命をささげ、忠臣と呼ばれます。

吉良町には「義理と人情の人」と呼ばれる「吉良の仁吉」がいます。時代はずっと後、清水次郎長の兄弟分になった侠客で、清水次郎長の援助で吉良町の源徳寺に仁吉の墓が建てられました。次郎長はたびたび吉良に立ち寄り、そのせいか3番目の女房お蝶は吉良出身です。

源徳寺は吉良公の父、義冬公が鐘楼と山門を寄進し深く帰依した寺です。尾崎士郎は吉良公同様「吉良の仁吉」にも深く傾倒し「人生劇場」で紹介しました。

「吉良の仁吉」は、わずかな恩を返すために義理だてし命を落とします。「男の中の男」と呼ばれ、これにあやかろうとして墓石を削りとる人が後を絶ちません。そこで生まれたのが「必勝かち勝石」! 「吉良の仁吉」墓石のかけらが入っており、「必ずあなたに、勝利を呼ぶ!」と。「吉良の仁吉」にあやかれ、墓石も守られます。一袋100円の一石二鳥。ぜひ立ち寄って試してみてはいかがでしょう。

「義理と人情」の町、吉良町の見どころ
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尚、華蔵寺から源徳寺に向かう際にまっすぐ南に行くと、和菓子老舗の「東角園」さん。銘菓、吉良の「赤馬」最中の発売元です。店先には赤馬の石像。徒歩でコースをめぐる際には、吉良の「赤馬」を店でいただくとお茶を入れていただけます。あずきと抹茶があり、一息入れるのにおススメです。

「義理と人情」の町、吉良町の見どころ
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華蔵寺から東北1kmほどに先ほどご紹介した黄金堤(こがねつつみ)があります。現在は桜の名所です。180mほどのひと一人がようやく歩けるほどの細い堤は吉良公が領民と共に一夜にして築き上げました。華蔵寺より一回り小さな吉良公の乗馬像が建ち、礎石にやはり尾崎士郎の解説があります。華蔵寺から少し足を伸ばしてみてはいかがでしょう。

おわりに、

愛知西尾の吉良公ゆかりのスポットを訪ねる旅はいかがでしたか。ご紹介した場所はどこも陽光と開放感に溢れ、これまでのイメージが変わります。

「吉良の仁吉」の墓がある源徳寺は、上横須賀駅へ戻る方向で徒歩23分ほど。駅からはおよそ500m。源徳寺の近くの福泉寺に尾崎士郎の墓があります。三河は三州瓦の本場。屋根の鬼瓦や飾り瓦が有名です。華蔵寺、福泉寺、源徳寺では見事な飾り瓦を見ることができます。お寺ではお参りの際に屋根を見上げてみて、獅子など躍動する飾り瓦を堪能してみてはいかがでしょう

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/12/07−2017/06/09 訪問

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