室町時代の1533年の開創。本尊に厄除け身代わり阿弥陀如来・不動明王・弘法大師を祀っています。本堂にある厄除け木魚を厄年の人は年齢の数、その他の人は21回叩き、厄除を祈願します。また、歓喜大黒天の鈴を振って招福を祈願することもできます。
境内は修行大師、子授けの玉石・輪導院(朝比奈弁財天)等の諸堂があります。敷地内の洞窟入口からやや離れた一画には無数の子安寺蔵尊が安置されており、多くの花が供えられているのが印象的です。
この地区は今では横浜市に属しますが、平安時代から鎌倉時代にかけて、現在の鎌倉市と横浜市の一部は「山内荘」という荘園の管轄下にあり、「相州鎌倉郡山内荘」と呼ばれていました。ですから、この寺院にも鎌倉時代の面影が残っているわけです。
言い伝えでは義秀がこの地に弁才天を祀り、1213年に起こった「和田合戦」で義秀がこの敷地内を通って落ち延びたと言われています。また鎌倉幕府滅亡時にも、落武者が逃れたそうです。
境内の裏山には「十三塚」があり、義秀と共に落ち延びた人々と関係があると伝えられています。洞窟は近隣の御霊神社にまで伸びていたと言われ、事の真偽は別にしても、御家人たちにとっては縁の深い場所でした。その後、江戸時代になると洞門が閉ざされてしまい、寂れてしまいます。ですが、洞内に流れる音無川の水を当時の田谷地区の灌漑に活かそうという話が持ち上がりました。その結果、再びこの洞窟は工事を行う事になり、同時に修行場も再開されることになったのです。
明治時代になると廃仏毀釈の機運が高まり、再び霊場は閉じられます。また、関東大震災によって、洞窟に関する書物・文献などの所在が不明になるなどの被害も受けました。何度も存続が危ぶまれるなかで、寺院が洞窟を一般に公開するようになったのは1927年のことです。
「田谷の洞窟」の正式な名称は「田谷山瑜伽洞」と言います。元鶴ヶ岡八幡宮二十五坊の修禅道場のひとつで、鎌倉時代初期の開創と伝えられています。江戸時代に至るまで整備・拡張され、総延長1km以上にわたる巨大な規模の洞窟となりました。
洞内には「本尊一願弘法大師」をはじめ、四国・関西・関東・秩父各礼所本尊・両界曼荼羅諸尊・十八羅漢等、数百体の御仏が行者の手により壁画に刻まれ、今も洞内には当時と変わらぬ荘厳な空気が流れています。
内部は粘板岩の巨大な一枚岩を掘って造られ、幾度かの大地震にも耐えています。また、合理性を兼ね備えた構造からは当時の土木技術の一端が伺われ、その観点からも貴重な存在と言えます。寂静の洞内に今尚残る無数のノミ跡は、真言密教の修練を伝えつつ、巡礼者の心の奥に潜む慈悲の念に説法をしているかのようです。
洞内は常時15〜17度に保たれており、冬場でも寒いという感覚はありません。天然のミストが充満する中で、社務所でもらったロウソクを灯しながら進んでいきます。足元が大変滑りやすいうえ、天井も低いので、洞窟へ行かれる方は軽装して入洞することをお薦めします。
18ある御仏のなかでも、「本尊一願弘法大師」の横から溢れ出す金剛水と呼ばれる霊水は病気治癒の御利益があると言われ、念仏を唱えながら、水を患部に刷り込むように撫でると効果があるそうです。その他にも地下2階部分まで掘り下げて描いた蛟龍の天井画は圧巻です。
ちなみに洞内を照らしたロウソクは持ち帰ることができるので、自宅の仏壇などにお供えをすると良いとの事です。
寺院までのアクセスはバスが便利ですが、敢えて徒歩で向かうことをお薦めします。所要時間は30分弱と、その他にも観光する予定がある場合は厳しいかもしれませんが、道中の田園風景が素晴らしいのです。
稲作地域のような地平線まで延びる開放感はありませんが、田んぼを横切る一本道があり、稲穂が垂れる中を土の匂いを感じながら歩くというのは街中ではなかなか体験できません。
特に夕暮れ時の黄金色に染まる陽の光と作物のコントラストは、息を呑む美しさです。片道どちらかでもこのルートを通っていくと歴史の息吹が身体に流れ込むようで、より厳かな心持ちで参拝できることでしょう。
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(2024/4/25更新)
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