朝ドラで人気沸騰!大阪でイケメン事業家・五代友厚の軌跡を巡るぶらり旅

朝ドラで人気沸騰!大阪でイケメン事業家・五代友厚の軌跡を巡るぶらり旅

更新日:2015/12/07 12:34

毎回、放送されるたびに話題になるNHKの朝ドラ。明治時代の女性事業家として名高い広岡浅子さんをモデルとした、女性のサクセスストーリー『あさが来た』も話題になっています。没後130年となる2015年に、このドラマで注目を集めたのが薩摩藩士から実業家に転身した五代友厚氏。「大阪の経済界を築いた男」といっても過言ではありません。そこで今回は、大阪にある、今も愛される五代友厚ゆかりの地をご紹介します。

大企業のビル前に立つ精藍工場の跡

大企業のビル前に立つ精藍工場の跡
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大阪の中心地・梅田からスタートし、南に向かって歩くと堂島というエリアがあります。ここには昔、この国で最初につくられたという大きな精藍工場があったそうです。その精藍工場である「西朝陽館」をつくったのが、五代友厚氏です。藍とは、染物に使われるもので、当時は国内の藍の品質は悪く、インドからの輸入に頼っている状態だったそうです。

明治9年に開業した西朝陽館は、明治11年にその業績の最盛期を迎えます。しかし、残念ながら明治16年にはその業績をキープできずに閉鎖してしまうことになりました。しかし、明治政府とのパイプも強かったという五代友厚が政府から融資を受けて創業したこの精藍工場が、大阪の近代化に一役買ったことはいうまでもありません。

現在は、堂島の川の近くにあるNTTテレパーク堂島第二ビルの前にその跡が残っています。現在も堂島は、多くのオフィスビルが並び、たくさんの会社が大阪の経済を支えています。この碑を眺めていると、五代友厚氏がその前身をつくった存在であったことを実感させられます。

日本の銀行の先駆けだった跡が残る国の重要文化財

日本の銀行の先駆けだった跡が残る国の重要文化財
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江戸から明治に時代が変わった頃、日本を変えることはできても、肝心のお金がないということで政府は困っていました。しかし、開国した日本にとって、海外に侵略されないようにまず経済を整えることが最大の課題だったと思います。明治政府は、通商司大阪支署をつくり、江戸時代の銀貨の単位であった「銀目」が廃止され、経済が混乱してしまいます。その対策として、政府は「通商司大阪支署」をつくり、その監督下に大阪通商会社と大阪為替会社を置きます。

大阪通商会社は、商業の振興や外国との貿易の統括を行ない、大阪為替会社は預金や紙幣の発行などの金融業務を行いました。残念ながらこの両社はあまり長く続きませんでしたが、これがその当時ではまだ珍しかった株式会社や銀行の先駆けとなっていくわけです。そして、大阪発展のためにこの両社をつくろうと、五代友厚氏が大阪の財界に向けて説得を続けたと言われています。

現在、この跡が中之島の大阪市中央公会堂前に立っています。中央公会堂は国の重要文化財に指定されており、大阪では有名な観光スポットですが、この碑に足を止める人はまだ多くありません。これから注目されるであろうスポットです。

「イケメン実業家」を確認できる銅像をチェック!

「イケメン実業家」を確認できる銅像をチェック!
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中之島を南に向かって歩き、大阪・北浜に向かいます。その北浜の駅前にある大阪取引所の前には、イケメンの銅像が建っています。この銅像こそ、五代友厚氏です。

明治11年、五代氏は大阪証券取引所の前身である「大阪株式取引所」の設立に尽力します。この大阪取引所の設立により、大阪は大きな発展を遂げていくことに。その功績を称えて銅像が建てられました。この銅像は平成16年の大阪取引所新ビル完成の時に一緒に誕生し、高さは約7メートル。現在では北浜のシンボルにもなっています。

この銅像を見ると、ドラマさながらのイケメンであったことがわかります。そして、気品の高さも伝わってきます。仕事ができる男っていうのは、いつの時代もこういうものなのかと感慨深く眺めてしまいます。

大阪の商人を今も見つめる3体の銅像

大阪の商人を今も見つめる3体の銅像
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北浜をまた南に下ると、大阪の企業が今も多く集まる「大阪商工会議所」があります。その前に、3体の銅像が立っています。彼らは大阪商工会議所の会頭でもあり、近代大阪の発展に尽力した功労者を称えるためのものです。

一人は、ここまで紹介した五代友厚氏(左)。一人は、京阪電気鉄道の社長でもあった土居通夫氏(中央)。一人は、関西日仏会館を設立したという稲畑勝太郎氏(右)です。以前は堂島の旧大阪商工会議所にあったのですが、堺筋本町に移設されてきました。ちなみに、五代氏は初代の会頭であり、この大阪商工会議所を語るには欠かせない人です。

この3体の銅像は、見た目とてもインパクトがあるのですが、これまでは街の中に違和感なく存在しました。でも最近になってからは、この銅像の下に彫られた名前を見て、足を止める人もいるようです。大阪に多大なる功績を残したお三方の銅像を眺めていると、思わず感謝せずにはいられません。今も商工会議所に訪れるたくさんの経営者の方を見守っているかのような、優しい表情が印象的です。

発展を願って奉祀した「商工稲荷神社」の現在

発展を願って奉祀した「商工稲荷神社」の現在
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商工会議所の銅像の奥に、小さな神社があります。この神社は「若宮商工稲荷神社」といいます。

実は五代友厚氏は、大阪の商業や産業が発展するようにという願いを込めて「商工稲荷神社」を奉祀します。頭が良く、行動力もある五代氏ですが、神様への祈願もしっかりしているなんて、さすが抜け目がありません。しかも、商工会議所の中に神社を作ってしまうなんて、今ならできませんよね。

そんな「商工稲荷神社」ですが、大阪商工会議所が現在の場所に移設する際に、その場所にあった「若宮稲荷神社」と合祀し、「若宮商工稲荷神社」となりました。
現在も会頭をはじめ、多くの会員の方、そして地元の方にも愛されている場所です。

没後130年でますます注目される五代友厚!

2015年に朝ドラの影響で注目を集めた五代友厚。鹿児島の薩摩藩士でありながら、大阪の商業を発展させた功労者として愛され続ける五代氏ですが。ちょうど没後130年にあたる2015年に注目を集め、今後は映画化も企画されているなど、ますます注目を集めそうです。

幕末から明治へという激動の時代に、大阪のインフラを整えるということは簡単ではなかったはずです。現在も「商人の街」と言われう大阪の経済界の礎となった五代氏のサクセスストーリーも一言では語れないものだと思います。
大阪観光の際には、このように奇跡の爪痕を、辿ってみてはいかがですか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/12/04 訪問

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