悲運の城が夜空に浮かぶ、山口県「岩国城」

悲運の城が夜空に浮かぶ、山口県「岩国城」

更新日:2016/01/25 16:50

塚本 隆司のプロフィール写真 塚本 隆司 ぼっち旅ライター
日本100名城のひとつ、山口県「岩国城」。築城後7年で取り壊された「悲運の城」だという。
現在は復興天守が建つが、古い絵図を頼りに復元された外観は、他にはない不思議な姿をしている。
錦帯橋越しに見えるライトアップされた姿が「夜空に浮かぶ城」としても注目されている岩国城。その歴史を知れば、より一層興味がわいてくる。ただの鉄筋コンクリートの城だと思っていては、もったいない。

錦帯橋の向こうに浮かぶ城

錦帯橋の向こうに浮かぶ城

写真:塚本 隆司

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現在の岩国城は、公園整備計画の中で錦帯橋や吉香公園から見える位置に再建された復興天守。

夜になるとライトアップされ、まるで宙に浮いているかのように見える姿が注目を集めている。日本三名橋・日本三大奇橋に数えられる錦帯橋のライトアップとあわせ、岩国の夜を楽しませてくれるスポットだ。

岩国城のライトアップは、日没から22:00まで毎日行われている。錦帯橋のライトアップは、実施していない期間もあるのでホームページ等で確認が必要だ。夜桜や鵜飼いのシーズンは、さらに幻想的な景色を見ることができる。

岩国城が誕生するまで

岩国城が誕生するまで

写真:塚本 隆司

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吉川広家が山口県岩国に城を築くまでの経緯を簡単に説明しておこう。詳しくは、現地の案内板やパンフレットなどを参考にして欲しい。

1600(慶長5)年の関ヶ原合戦。西軍総大将は石田三成ではない。名目上であれ、毛利家当主の毛利輝元だった。毛利家一門の吉川広家らは、徳川家康と「毛利家の所領安堵」を密約し、東軍の勝利に貢献したが、密約は反故にされ毛利家は所領没収、広家に周防・長門を与える沙汰があった。

広家は、自身に与えられた所領を毛利家にと懇願し、存続を認めさせる。結果、毛利家は100万石の所領を37万石に減らすことになったが、生き抜くことができた。広家は毛利家から岩国3万石を拝領する。支藩と認められなかったので藩主ではない。しかし、徳川家からは大名格として扱われるという微妙な立場であった。

岩国城は1601(慶長6)年に築城が始まり、1608(慶長13)年に完成した。錦川を天然の外堀とし、標高約216メートルの横山山頂から北側を通る西国街道を睨むように天守が建っていたという。現在は天守台のみが残っている。

山城に西日本最大級の空堀

山城に西日本最大級の空堀

写真:塚本 隆司

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平城や平山城が主流の時代に、あえて山城を築いたのにも事情があったとみえる。山上に大きな空堀があり、明らかに実戦を重視した城なのだ。

広家が想定した敵は誰だったのか。徳川に裏切られた思いもあっただろう。東からの脅威に対して毛利家を守る意識が強い城だったようだ。毛利家内部では、広家が西軍勝利の邪魔をしたと見るものもいた。いずれにせよ、広家の孤独感と毛利家を守るという忠義心が伝わってくるようだ。

唯一無二の不思議な外観をもつ天守閣

唯一無二の不思議な外観をもつ天守閣

写真:塚本 隆司

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1962(昭和37)年に公園整備の一環として復興天守が築かれた。旧天守台より南側の錦帯橋や吉香(きっこう)公園から見える位置に建ち、内部は博物館になっている。

特徴的な外観がひときわ目を引く。絵図を元に外観復元されたもので、桃山風南蛮造りという。他にも数例あったとされるが、岩国城が最も古く大きなものだったといわれている。

下階より上階が張り出した部分が2箇所あるのがわかるだろうか。見た目は4重でありながら、実は6階建ての天守となっている。平面を大きく取れる効果があるが、それだけではない。

この時代、天守の階層規制があったようだ。外観の階層を少なく見せることで、規制に逆らったのではないだろうか。広家には、戦いに備えた山城と強固な天守が必要だったに違いない。

岩国寿司は、戦に備えた保存食

岩国寿司は、戦に備えた保存食

写真:塚本 隆司

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岩国の郷土料理として有名な岩国寿司は別名「殿様寿司」ともいわれ、吉川広家が料理番に命じて作らせた保存食が始まりという(諸説あり)。山城では水が貴重である。炊事は控えなければならず、保存食として考え出されたのが岩国寿司だ。登城の際に弁当として持参していたとか。

岩国寿司とは、3段から5段重ねの押し寿司。アジなど魚のすり身を混ぜた寿司飯の上に錦糸卵やシイタケ・でんぶ・レンコンの酢漬けなどで盛りつけ、段を重ねる。

写真は錦帯橋のたもとにある「にしき屋」の岩国寿司だ。郷土料理の「大平(おおひら)」と「蓮根なます」が付いている。どれも祝いの席には欠かせない郷土料理だという。「大平」は、サトイモやナガイモ・シイタケ・高野豆腐・ゴボウなどに鶏肉を入れて煮たもの。

「蓮根なます」は特産の岩国レンコンの酢漬け。通常8個穴のレンコンだが、岩国レンコンは9個の穴があり、吉川家の家紋九曜紋に似ていると喜ばれたそうだ。

最後に

岩国城は、完成から7年後の1615(元和元)年、一国一城令により破却される。長府国に萩城、周防国に岩国城とすれば一国一城だと広家は訴えかけるも、毛利家の意向もあり廃城となってしまった。「悲運の城」といわれる所以だ。以降、天守は再建されなかったが、変わって錦帯橋が岩国のシンボルとして登場する。

岩国城の歴史を知ってから訪問すれば、領主・吉川広家が何を思いながら築城したのか気になるところ。今となってはわからないことも多いが、想像しながら観光するのは楽しいものだ。

不思議な天守の外観、夜空に浮かび上がる姿、そして岩国寿司。岩国城は、歴史の重みを感じることができるスポットなのだ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/10 訪問

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