794年(延暦13年)、桓武天皇(かんむてんのう、737年〜806年)によって平安京へと都が移され、その中央の通りである朱雀大路(すざくおおじ)の南端に大きな門、羅城門(らじょうもん)が建てられます。その東西には、それぞれ国立の寺院を配置し、「東寺」と「西寺」としました。
残念ながら「西寺」は後に衰退し、寺院として現在は残っていません。一方、「東寺」では、各種の建造物は災害や兵火などにより、焼失を繰り返しましたが、その度に再建され、今なお弘法大師・空海(くうかい、774年〜835年)の教えを伝え続けています。
こちらは「東寺」の南に位置する「南大門」。安土桃山時代、1601年(慶長6年)に再建されたもので、重要文化財にも指定されています。
桓武天皇から嵯峨天皇(さがてんのう、786年〜842年)へと時代は移り変わりますが、「東寺」は完成には到らず、そこで、空海へとその任が回ってきます。823年(弘仁14年)に、嵯峨天皇から空海に対して「東寺」の管理の命が下されたのです。
遣唐使として唐に渡り、密教の他に最先端の文化芸術も持ち帰ってきた空海に興味を抱いていた嵯峨天皇。空海が806年(大同元年)に唐から日本へと戻ってきた後に二人が交流を深めていた事も、「東寺」の管理を任された背景の一つと言われています。
こちらは重要文化財の本尊・薬師如来坐像と両脇に日光菩薩像、月光(がっこう)菩薩像が安置されている「金堂(こんどう)」。現在のものは、1603年(慶長8年)に完成したもので、国宝となっています。
「講堂」は825年(天長2年)に弘法大師・空海によって着工され、約10年の歳月を経て完成。その後、災害によって度々大破しましたが、その都度、修理が繰り返されます。しかし、1486年(文明18年)の土一揆の戦火により焼失してしまいます。
現在の「講堂」は室町時代、1491年(延徳3年)に再興された建物です。堂内には、大日如来像を中心とし、合計21体の仏像が配置。これは弘法大師・空海の密教の教えを3次元の空間で表現した大日如来の住む清らかな国、密厳浄土(みつごんじょうど)の世界であり、“立体曼荼羅(りったいまんだら)”と呼ばれています。
写真や映像などといった2次元では捉え切れないものなので、その眼とその体で“立体曼荼羅”を感じてみて下さい。
僧が食事をしたり、生活の中に修行を見い出したりする場が「食堂」。読み方は“じきどう”です。かつての本尊は理源大師・聖宝(しょうぼう、832年〜909年)によって造立された、6メートルの千手観音菩薩立像でした。そのため、千手堂、または観音堂とも呼ばれています。
1930年(昭和5年)の「食堂」の火災により、国宝であった本尊が大きく焼損。修復の後には宝物館に安置され、「食堂」の本尊は、十一面観音菩薩立像となりました。
現在の建物は、1934年(昭和9年)に再建されたもので、四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三所観音霊場などの納経所ともなっています。
「南大門」から入って、境内の南から北へと、真っ直ぐに「金堂」、「講堂」、そして少し離れて「食堂」と並んでいます。この配置は、仏法僧(ぶっぽうそう)と呼ばれるもの。「金堂」には本尊の“仏”、「講堂」には密教の教え“法”、「食堂」が“僧”の場であることを意味しています。
また、その直線の左右には、「灌頂院(かんじょういん)」と「五重塔」が建立されています。実は「講堂」内の仏像の配置と同様に、「東寺」の境内も、密教の教えを表現する“密厳浄土”、“曼荼羅”となっているのです。
「東寺」の象徴として広く親しまれている「五重塔」は現在のもので5代目です。1644年(寛永21年)に徳川家光(とくがわ いえみつ、1604年〜1651年)の寄進により完成。現存する日本の古塔中最高の約55メートルで、国宝にもなっています。
弘法大師・空海が密教の教えを各所に取り入れて、建立された「東寺」。蓮、沙羅、百日紅、楠といった草木も生い茂り、緑も豊かな境内には、多くの参拝者が訪れます。
また毎月21日には露店が軒を連ねる“弘法市”も開かれ、より一層の賑わいを見せることに。“弘法市”に合わせて、「東寺」を訪れるのもオススメです。
以上、和歌山の高野山、香川の善通寺と並び弘法大師・三大霊跡の一つであり、1994年(平成6年)には、世界遺産としても登録された京都「東寺」の御紹介でした。
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