島ケ原の歴史は、天武天皇の皇女・多紀皇女(たきのひめみこ)が斎王を引退ののちこの地に隠棲し、父母の菩提を弔らう目的で観音寺・埴山寺を創建した神亀2年(725)に始まります。
以来、島ケ原では、当時すでに流布しはじめていた十一面観音信仰を中心に東大寺の春を告げるお水取り(修二会)とそっくり同じ荒々しい行法が、1200年以上もたゆまず続けられて来たのです。
それは新春の五穀豊穣を願う行法であることから修正会(しゅしょうえ)と呼ばれ親しまれてきました。現在では毎年の2月11日・12日に行なわれています。
東大寺初代別当・良弁の弟子の実忠は、天平勝宝4年(752)、東大寺大佛開眼供養会の年に聖武上皇の勅願を受け、様々な職能の人たちとこの地に入植開墾し、夢告で得られた現本尊(秘仏)の十一面観音を奉納し、この寺を中心に村を整備したと伝えられています。
それは、お水取りの修法がここ島ケ原で行なわれていた秘儀をモデルとしたことによると思われます。
後世になって、東大寺二月堂の修二会は実忠が笠置山の千手窟から弥勒の兜率天へと導かれ、そこで行なわれていた儀式を二月堂で再現したものだという伝承がうまれました。
笠置山は島ケ原と奈良の都を隔てる原始修験の山です。
佛教では、末法以後、56億7千万年という気の遠くなるような無仏の歳月を経て弥勒が下生すると言われています。
信心も失せるに足る天文学的な時間です。
また、東大寺二月堂の本尊・十一面観音あるいは聖観音は、決して衆人の目に触れることのない絶対秘仏で、死ぬまでに1度会いまみえたいと願う人々のかすかな期待など眼中にありません。
飽くまで鎮護国家のための装置なのです。
だとすれば、33年に一度ご開帳の時を迎えるという島ケ原の秘仏は、実に微妙な時間のサイクルを持って私たちの意識の端に引っかかっているといえましょう。
それをただ手をこまねいて待っているだけではなく、正月堂では原初の秘儀でもって、33年という人の一生からすれば気の遠くなるような時空を具体化して示し、訪れる人に「だったら次のご開帳まで生きてみるか」と思わせるに足るものを与え続けて来たのです。
ひたすら待つのみであれば、人は皆くたびれ果ててしまいます。
島ケ原の地に降り立てば、たちどころに僕達の日常的な時間と全く性質を異にする島ケ原時間が流れていることに気づかされます。
そして知らぬ間にこの島ケ原時間にシンクロしていく自分がいることに驚かされます。
秘仏ご開帳の節目の時を恙なく満了し静寂を取り戻した島ケ原は、2016年2月10、11日の両日勤修される修正会にはじまる新たな33年へ向け胎動が始まっています。
まずは、この絶妙な島ケ原時間にシンクロさせること。
そして今、生かされていることに感謝することにより、不可能と思われた秘仏への道が着実に開かれてくることを実感することから始めましょう。
修正会(しゅしょうえ)は、11日の大餅会式(だいひょうえしき)と呼ばれる餅撒きの庶民的行事と、12日の達陀(だったん)行法・火天の舞をはじめとする千古の厳粛な儀式が見事に融合したもので、県指定無形文化財となっています。
この荒行こそが、常には見ることのできない秘仏十一面観音を中心に展開されてきたのです。
正月堂には、この本尊・秘仏のほかにも聖観音立像1体、十一面観音立像3体、梵天・帝釈天が安置されており、久遠の時の流れを感じさせられます。
絵葉書がわりに売られていた写真のコピーでは、堂闇に浮かびあがるこの異形観音の凄まじいまでの迫力は到底お伝えできませんが、地蔵信仰以前に我が国の衆生救済の主体であった十一面観音立像の中でも、きわめて珍しい三対六臂の鋭い眼光を持ったお姿です。
島ケ原時間をより鮮烈な時の流れの中で私たちに体感させてくれるのが「蜜の木」です。それは、2013年この村で美術家の岩名泰岳と地元の若者が中心となって結成された、村をフィールドとする文化プロジェクトの企画集団。
2015年春の修正会では「蜜の木講」を結成して参加しました。また、今回のご開帳の期間には観菩提寺客殿を活用して、秘仏十一面観音像御開帳記念プロジェクト「KISEKI」を実現。
かくして島ケ原時間は、観菩提寺を中心とするきわめてローカルで特殊なものであると同時に、現在の地球時間へとシンクロしうる普遍的なものでもあることが、現地で生まれ育った若者たちによって実証されはじめています。
今や正月堂を訪れますと、秘仏を巡る悠久のサイクルとそれを現実のものとする修正会とリンクする形で島ケ原の新しいいのちの息吹きをごく自然に体感できるまでになっています。
写真はその中の1点。「光明」と題された鈴木崇(Suzuki Takashi)の作品。現在ドイツに在住。
若狭井の伝承をつたえるお水取りの行事の主役は白黒2羽の鵜ですが、この神社は東大寺二月堂鎮守の鵜の宮(現在の興成神社)から勧請されたとつたえられています。
良弁、実忠にしてみれば、島ケ原の地も若狭とのつながりを持たせたかったのでしょう。
境内には大きな自然石の燈籠があり、長い石段を登りつめると、うっそうとした樹木に抱かれるようにして社殿があります。
現在の祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。
中世には後醍醐天皇の南朝側に組して活躍した島ケ原党と呼ばれた渡辺競の一族が当地を支配したといわれ、正月堂を再興し建御名方の諏訪明神を寺の一隅に勧請しましたので、その名残りのようです。
蒼古たる神社で、修正会の際には神官が正月堂に奉祀すると聞きました。
この旅のもうひとつの楽しみは、1時間に1本あるかないかの関西本線の乗客となること。かっては暴れ川の代表だった伊賀川(木津川)に沿って恭仁京跡を尻目に、笠置山を仰ぎ、月ケ瀬を遠くに臨み、けものみちのような鉄路を縫って伊賀、亀山方面へと走るこの単線列車の旅は最高です。
また、ここには島ケ原温泉やぶっちゃの湯という天然温泉もあり、そこは親子連れが終日楽しめる多目的パークのやぶっちゃランドになっています。
島ケ原は僻遠の地というのは過去のこと。修正会を手始めに足しげく訪ねることをお勧めします。
島ケ原は都会人の目から見ると何もないところ。でも訪ねてみると立ちに了解されますが、とてもゆたかな土地柄で、僕たちの失ったものがすべて備わっています。
しかし、都会の時間とは異なる時の流れに身をゆだねることなしにその魅力にふれることは決して出来ません。
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