写真:塚本 隆司
地図を見る毛利家一門の吉川広家が岩国3万石の初代領主となったのは1600年。関ヶ原の戦いの後のことである。湾曲して流れる錦川を天然の外堀として、横山に岩国城を築く。この時代には珍しい山城だ。
築城から7年後の1615年、一国一城令によりあっけなく破却されてしまう。結果、狭い土地に政庁を置かねばならず、町は川の両側に広がることとなる。川を渡る手段は渡し船のみ。橋を作る必要が生まれていた。
橋は、何度も架けられた。されど、大雨が降るたびに橋脚が流されてしまう。3代目領主広嘉の時代に、橋脚のないアーチ橋が考案された。構想から10年後、ようやく錦帯橋が完成。1673年10月1日のことである。
写真には錦帯橋と山上の岩国城が映っている。錦帯橋が架けられた頃にはない風景だ。当時の人が見れば、この風景に涙することだろう。(築城時の岩国城天守は、現在と異なる位置にあり、この場所から天守を眺めることはできません)
写真:塚本 隆司
地図を見る1673年、やっとの思いで完成した錦帯橋だが、翌年の大洪水でまたもや流されてしまう。原因は敷石の不備とわかり、翌年には再工事。以後、1934年(昭和9年)の台風で流失するまでの276年間、流されることのない橋が完成した。藩のシンボルであり、心のよりどころとなる橋「錦帯橋」である。
木造の橋は、多くの知恵と技術で作られた。下から眺めるとその強さの秘密がわかる。橋脚にあたる石垣には、川の流れを受け流す仕組み。木材は、マツやケヤキなど数種類を適材適所に使用。柱の強度を高めるための鉄帯や釘巻金の技術。補修と架け替え工事は、100回以上行われている。その技術は口伝(くでん)で伝えられてきたという。図面は残せても、技術は口頭で伝えるのが現実的な手段だったようだ。その技は現代にも受け継がれ、2004年(平成16年)の掛け替え工事にも生かされている。
写真:塚本 隆司
地図を見る完成した橋は「岩国大橋」とも呼ばれていたようだ。城を持たない岩国藩にとって、橋は城門の役割を果たしていたと考えられる。
通行できるのは家臣のみ。とはいえ、袖の下を渡せば黙認されることもあったとか。
大名行列など他藩の者が橋を通行することもある。館の前を通る際などは、礼儀として「槍は立てずに倒して渡る」のが一般的だった。岩国藩は幕府から認められているとはいえ、官位を授けられておらず正式な大名とはいえなかった。家格は低く見られ、槍を倒さず通過する大名がいたという。これでは藩のメンツが丸つぶれである。そこで一計を案じて植えられたのが、「槍倒し(やりこかし)の松」だ。マツの木が邪魔をして槍を倒さなければ渡れないのである。岩国藩の意地が感じられる逸話だ。
錦帯橋を彩る風景は実に見事なもの。庶民の間では「凌雲橋」「五竜橋」「帯雲橋」といくつかの呼び名もあったという。美しい風景を例えて呼んだに違いない。周囲のどんな美しい景色にも引けを取らない錦帯橋のシルエット。日本が世界に誇る観光スポットだ。
春は桜、夏は新緑と鵜飼い、秋には紅葉、冬の雪景色もいい。季節だけではない。山々が霧にかすむ朝もいい。夕景もライトアップされた夜景も美しい。雨の日でさえ、風情が感じられる。時を選ばず、いつ訪れてもよい観光地はそう多くないだろう。
錦帯橋では数々のイベントが行われている。
主なものとしては、毎年4月29日 (昭和の日) に開催される「錦帯橋まつり」だろう。午後2時前後に大名行列や奴道中が錦帯橋を渡る。8月第一土曜日開催の花火大会も人気が高い。他のイベントなど、詳しくは公式ホームページで確認して出掛けるとよい。
特に注目したいのが夏の風物詩「錦帯橋の鵜飼い」だ。約400年もの歴史があるという。一度は遊覧船から見物したいと思う人も多いはず。鵜船のかがり火が幻想的に揺れる光景は、今も昔も変わらない風景だろう。
錦帯橋だけでいえば、滞在時間は30分に満たない人が多いという。バスツアーでの観光なら仕方ないかもしれないが、もったいない。岩国城や吉香公園、古い街並み、岩国寿司など郷土料理もある。半日以上滞在ができる観光スポットなのだ。
時間の移り変わりで変化する錦帯橋の景色を、川岸でぼんやり眺めてみるのも旅の楽しみ方のひとつ。錦帯橋へは、ちょっと余裕を持って訪れてみることをおすすめしたい。
この記事の関連MEMO
- PR -
トラベルjpで250社の旅行をまとめて比較!
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/3/28更新)
- 広告 -