安土城は、天正四年(1576年)天下統一を目前にした織田信長が、当時の交通の要所であった琵琶湖東岸の山頂に築きました。当時は「安土御山」と呼ばれていた安土城は、信長の天下統一事業の集大成として威信を懸けて築かれ、それまで誰もが見たことのない豪華絢爛な巨大城郭でした。
しかし残念ながら現在まで当時の安土城を描いた絵図は見つかっておらず、当時の家臣や宣教師が書いた古文書の文面から想像することしか出来ません。それでも、黄金の瓦をまとった七階建ての天主、天皇を迎えるための荘厳な巨大御殿など、現代人の私たちからしても相当豪華なお城だったことには違いないでしょう。
そんな豪華絢爛な安土城も、天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が自刃した数日後に、謎の出火により天主を始め城の主要部分を焼失してしまいます。そして秀吉の時代となり、安土城は廃止され、やがて土に埋もれてしまいました。
しかしその数百年後、昭和の時代になって安土城跡は発掘調査・整備が行われ、現在は国の「特別史跡・安土城跡」として、400年前に信長が築いた当時の姿を取り戻しつつあります。建物は極一部を除いて殆ど残っていませんが、長く伸びる大手道や巨大な石垣が当時の姿を思い起こさせます。
広大な安土城跡には多数の石垣を見ることが出来ますが、その大半は昭和の整備工事による復元(積み直し)です。しかし、天正四年に信長が築いた当時の石垣が大規模に残る場所が、城内に2箇所だけあります。
1つは写真の「二ノ丸」石垣、そしてもう1つはその奥の「天主台」の石垣です。400年以上の時を超えて今もそびえ立つ石垣を、ぜひ現地で見てその歴史を感じて下さい。
安土城の天主台の上には、古文書に記された七階建ての「天主」を支えた巨大な礎石(柱の下に敷かれる巨石)が今も残ります。
等間隔に整然と並べられた91個の巨大礎石群は、調査の結果、ほぼ当時のまま残っていることが判明しています。
また、天主台の中央には1箇所だけ「礎石がない場所」があります。果たしてここには何があったのか。そんなことを考えながら現地を巡るのも楽しいですよ。
天主台の奥には、安土山から琵琶湖を一望できる眺望スポットがあります。天主台へ登られたら、ぜひ奥の階段から上にあがってみましょう。
かつて信長もこの景色を眺め思いを馳せたことでしょう・・・と言いたいところですが、実は私たちが今見ている眺望は、信長の時代とは2つ大きく異なる点があるのです。
1つは、信長時代にはこの上に七階建ての天主が建っていたこと。もちろん信長は、最上階の七階から眺望を見ていたでしょう。つまり、私たちよりも更に数十メートル上から見下ろしていたのです。眺望もまったく違ったでしょうね。
そして2つ目は、安土山の周囲は内湖(入り江)で囲まれていたことです。当時の琵琶湖は多くの内湖がありましたが、昭和になって多くが干拓工事で埋め立てられてしまいました。いまは一面田園が広がる眺望も、当時は見渡す限り琵琶湖の水面でした。まさに湖に浮かぶ城といった雰囲気だったかもしれません。
安土城の建物は、本能寺の変直後の火災と、その後の廃城の過程でほぼ全て失われてしまいました。しかし築城時に信長が城内に建立した「ハ見寺」の仁王門と三重塔が、今もそのまま残っています。天主台からは少し離れたところにありますが、登城時には必ず訪れたい必見の場所です。
仁王門は元亀二年(1571年)、三重塔はもっと古く享徳三年(1454年)に建てられたことが、棟札等から判明しています。元々は別の場所に建てられていた門や塔を、信長がここにハ見寺を建立する際に移築したと考えられています。まさに、信長が触れ、登った塔や門が、今もそのまま残っているのです。
安土城跡には天守閣などの建物は無く、ほぼ石垣しかありません。それでも在りし日の安土城の堅固さや荘厳さが十分に体感できる「名城跡」です。また近くには、天主の六・七階部分を実物大で想定復元した「信長の館」や、安土城や近隣城郭からの出土品を展示した「安土城考古博物館」、天主の巨大模型がある「安土町城郭資料館」などがあります。
信長が果たせなかった天下統一の夢の跡を、安土城跡と関連施設で追いかけてみませんか。
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(2024/4/23更新)
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