元祖女子力の伝説!鎌倉唯一の尼寺・英勝寺で女子力UPしませんか

元祖女子力の伝説!鎌倉唯一の尼寺・英勝寺で女子力UPしませんか

更新日:2015/11/11 11:41

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
古都鎌倉の扇が谷という粋な名称の土地にあり、江戸の香りが残る『英勝寺』は、「お勝」と呼ばれた美しく才智にたけた魅力的な女性によって創建され現在に至る寺院です。
由緒正しき家柄のお姫様でしたが、まさに稀代の女子力で多くの人々を魅了し、三百数十年の歴史を誇る英勝寺を作り上げた女子力は、現代においても輝いています。
今回は、鎌倉唯一の尼寺の『英勝寺』に伝わる、元祖女子力をご紹介いたします。

家康が愛した女子力

家康が愛した女子力

写真:Naoyuki 金井

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江戸城築城で有名な太田道灌のひ孫である太田康資の娘と云われる「於八」は聡明で美しかったことから徳川家康に気に入られて側室となり「梶」と名乗ります。この梶が如何に家康に気に入られたのか、当時の梶の聡明さを知らしめるエピソードがあります。

家康が突然「一番美味い食べ物とは何か」と問うと、答えられない家臣を尻目に梶は「塩」と答え、更に「では一番不味いものは何か」と問うと「それも塩」と答えたのです。
これは、“塩がなければ味を調えられないけれど、美味しいものでも塩を入れすぎれば食べられない”と説明し家康を感心させたのです。
この他にも、関ヶ原の戦いに男装して同行して連戦勝利したことから「お勝」と改名させられたり、大変な倹約家で駿府城の金庫の鍵を預けたといわれるくらい家康から信頼と寵愛を受けたのです。

徳川家の葵紋と太田家の桔梗紋を合わせた英勝寺の寺紋こそが、お勝の聡明さを今に伝えているのです。

頼房が愛した女子力

頼房が愛した女子力

写真:Naoyuki 金井

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側室であるお勝は、家康との間に娘を産みましたが幼くして亡くなり、その悲しみを見た家康は、後に水戸徳川家の祖となる家康の十一男、徳川頼房の養母にさせ悲しみを和らげたのです。

家康の死後、お勝は出家し名を英勝院と改め、三代将軍家光から先祖である太田道灌の屋敷があった土地をいただいて寺院を建立し、自身の名前を付けて晩年を過ごしたのが現在の『英勝寺』です。
創建にあたっては、太田家の由緒を持ち家康の寵愛を受けた由来と、水戸家の藩主の養母であった立場から、水戸家の全面的な支援を受けたのです。
1636年の創建時から残る徳川頼房建立の“仏殿”、英勝院一周忌に頼房の弟松平頼重によって建立された“山門・鐘楼”、更には水戸光圀によって建立された“祠堂・祠堂門”は、いずれも国指定重要文化財です。

江戸時代に創建された数々の堂宇が、水戸家と徳川家から崇められた英勝院の気品を偲ばせています。

黄門様が愛した女子力

黄門様が愛した女子力

写真:Naoyuki 金井

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1636年に英勝院が英勝寺を創建した時、開山住持として迎えられたのが、幼名小良姫の“清因尼”で、1634年に英勝院の養女となり、住持となったのは僅か8歳でした。

この小良姫が、水戸徳川家のお姫様であったことから、初代住持の清因尼以降、江戸時代においては六代清吟尼ま代々、水戸家のお姫様が住持を務めたのです。
こうして水戸家の後ろ盾により大きな寺領を受けていたことから、地元では英勝寺を「水戸御殿」や「水戸様の尼寺」と呼んでいたのです。
更に小良姫の父が、かつて英勝院に育てられた水戸家の徳川頼房であり、あの黄門様と母親違いの妹にあたることから、黄門様も英勝院の位牌を祀る“祠堂・祠堂門”を建立したり、英勝寺を訪れて鎌倉観光案内書のルーツともいわれる「新編鎌倉志」を作ることができたのです。

光圀建立の祠堂・祠堂門で、英勝院に育てられた清因尼の健気な姿を見ることができるでしょう。

水戸家が愛した女子力

水戸家が愛した女子力

写真:Naoyuki 金井

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光圀が作った新編鎌倉志の英勝寺の地図によれば、境内でもひと際大きな建物が客殿を含んだ“方丈”でした。これは歴代の住持、つまり水戸徳川家のお姫様が住むところですから、方丈といえども大名屋敷と同じくらいの豪華さだったのです。

お姫様が住んでいたことから“姫御殿”と呼ばれ、水戸藩から多くの家臣や女中が遣わされ、尼僧となってもお姫様の暮らしは続けられたのです。山門付近の蓮池では菖蒲を愛で、当時、境内敷地であった源氏山では桃の花見が行われました。さらに夏には由比ヶ浜から寺領朱印地であった逗子へ船遊びに出かけたり、海岸の松原ではキノコ取りなどで楽しんでいたのです。
一見、甘やかしているように見えるのですが、六代の住持が6歳から11歳で住持になっているので、嫁ぐのとは違い一人で生きていく運命に一抹の不安と寂しさを隠していたのです。

現在、方丈のあった場所は美しい竹林となっており、その凛とした姿は、歴代住持の気丈さを現しているかのようです。

徳川家が愛した女子力

徳川家が愛した女子力

写真:Naoyuki 金井

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栄華を誇った英勝寺は明治維新により一時荒廃しますが、以降は徳川家の支援で維持され、大正8年からは東京青山の善光寺から住職を招聘して鎌倉唯一の尼寺を維持しています。

現在は花の寺としても名高く、境内のいたるところに四季が訪れてくる佇まいは、見るものを飽きさせません。
梅・椿に始まる花暦は、鎌倉市指定の天然記念物の“ワビスケ”に受け継がれ、八重桜・ショッカサイの華やかな4月を過ぎると、美しく映える見事な“藤”を見ながら庫裏でいただく抹茶も風流です。
緑濃い夏の時期のサルスベリ・芙蓉の暑さを過ぎれば、美しい彼岸花で秋を感じることができます。そして鎌倉の遅い秋に染まる紅葉で一年の花暦を終えるのです。
最初の写真の通用門には、“花だより”という看板があり、花の寺の多い鎌倉でも、現在咲いている花をその場で知ることができる寺院はそう多くありません。

花の寺の花だよりで、代々受け継がれてきた女性らしい細やかな心配りを感じることでしょう。

最後に。。。

英勝院に始まる江戸時代の女子力はいかがですか。
英勝寺を訪れても決して女子力がアップするわけではないのですが、あなたのモチベーションアップにはなるかもしれませんね。
鎌倉を訪れて時間にゆとりがあるなら、是非、英勝寺にも立ち寄ってみてください。きっと何かを感じることができるはずです。

なお、英勝寺の総門は常に閉じられているので、入れないと勘違いする方が多いのですが、総門を見て右側の塀に沿って進むと通用門(段落1の写真)がありますので、こちらから入ることができます。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/10/25 訪問

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