和歌山「紀伊田辺」は源義経に仕えた“武蔵坊弁慶”ゆかりの地

和歌山「紀伊田辺」は源義経に仕えた“武蔵坊弁慶”ゆかりの地

更新日:2017/11/10 13:14

猿楽・能、歌舞伎や人形浄瑠璃の題材としてもよく知られ、弁慶の泣き所、内弁慶、弁慶の立ち往生と由来する言葉も多くある武蔵坊弁慶。京都の五条大橋で若き日の源義経、幼名・牛若丸との出逢いは特に有名です。
出生地、また実在したかどうかさえ諸説ありますが“弁慶産湯乃井戸”や“弁慶松”など和歌山県田辺市には驚くほど多くの史跡や伝承が残されています。そんな“武蔵坊弁慶”ゆかりの地「紀伊田辺」を御紹介致します。

JR紀伊田辺駅に隣接「田辺観光センター」

JR紀伊田辺駅に隣接「田辺観光センター」
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駅の直ぐ隣に位置する「田辺観光センター」は、ホテルのロビーやフロントを思わせるようなダークブラウンとホワイトを基調とした施設内。英語対応可能なスタッフと観光ボランティアガイドが常駐しており、様々な旅行者にとって嬉しい環境が整っています。

案内カウンターの反対側には、田辺はもちろん、和歌山県内全域の観光パンフレット等を約100種類が常備されています。こちらで武蔵坊弁慶や見所の情報を得てから田辺観光に出発してみましょう。

駅前には巨大な「武蔵坊弁慶像」

駅前には巨大な「武蔵坊弁慶像」
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紀伊田辺駅・田辺観光センター前にはタクシーやバス乗り場があるロータリーとなっています。その中央の広場には、ひときわ目を引く巨大な像、武蔵坊弁慶像が立っています。
源義経とその主従を中心とした軍記物語『義経記(ぎけいき)』に基づいて和歌山県田辺市では弁慶生誕の地として1971年(昭和46年)に高さ3メートル、重さ2トンの巨大な弁慶像が建立されました。

「第六代・弁慶松」と「弁慶産湯乃井戸」

「第六代・弁慶松」と「弁慶産湯乃井戸」
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紀伊田辺駅から徒歩で約12分の場所にある観光スポットの“扇ヶ浜公園”。田辺湾に面して作られた地域住民の憩いの場でもある公園です。その手前の田辺市役所の隣には「第六代・弁慶松」と「弁慶産湯乃井戸」があります。

武蔵坊弁慶は、21代熊野別当の湛増(たんぞう)と二位大納言の姫との間の子供とされており、『義経記』では18ヶ月、室町時代の御伽草子『弁慶物語』では3年もの間、母の胎内にいたとされています。

「弁慶産湯乃井戸」とその他の生誕に関連する史跡

「弁慶産湯乃井戸」とその他の生誕に関連する史跡
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道路沿いにある入り口から敷石に従って進んで行くと弁慶の産湯の水を汲んだと伝えられている「弁慶産湯乃井戸」があります。産湯の井戸は、1960年(昭和35年)まで田辺第一小学校内にありましたが、1989年(平成元年)に田辺市役所の前に復元されました。
また紀伊田辺駅から徒歩で約5分の闘鶏(鬪雞)神社には「弁慶産湯の釜」、大福院には「弁慶生誕の地碑」もあるので合わせて訪れると良いでしょう。

歴史を物語る「第六代・弁慶松」

歴史を物語る「第六代・弁慶松」
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武蔵坊弁慶の生誕の地であることを記念して産湯の井戸の近くに植えられた弁慶松。大人5人が手を伸ばして、やっと囲めるほどの太さを持った松があったとされています。現在のものは六代目。

初代は天正年間(1573〜1593年)に城を築くため伐採されましたが、寛文年間(1661〜1672年)に井戸のほとりにあった松の一つを藩主・安藤公が選び二代目・弁慶松とします。その後、繰り返し植え継がれ、1975年(昭和50年)には五代目が枯死しましたが、その種子から育った幼木を都市計画に伴い移し植えられ、現在に至ります。

武蔵坊弁慶ゆかりの地「紀伊田辺」のまとめ

上記の以外にも、闘鶏(鬪雞)神社には、父親・湛増と弁慶の二つの像、八坂神社には弁慶の“腰掛け石”武蔵坊弁慶ゆかりの史跡が多くある和歌山県田辺市。
その他、田辺ゆかりの偉人、合気道の創設者・植芝盛平や博物学者・南方熊楠に関連した観光スポットや美しい景観など盛り沢山です。下部の関連メモには、田辺の宿泊施設を紹介した記事へのリンクもありますので、宜しければ御確認下さい。

以上、武蔵坊弁慶ゆかりの地「紀伊田辺」の御紹介でした。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/12/12 訪問

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