大燈国師が鎌倉時代に開き、応仁の乱で焼失後、一休禅師が再興した臨済宗大徳寺派の総本山「大徳寺(たいとくじ)」、勅使門から山門、仏殿、法堂が一列に並びます。
特に山門は、千利休(せんのりきゅう)切腹の原因になったと言われています。当初、一階部分だけが作られて放置されていた山門に、利休は2階部分「金毛閣(きんもうかく)」を加えて完成させました。しかし、その二階に諸仏とともに雪駄をはいた利休の木像を納めたために、豊臣秀吉の怒りを買ったのです。「この秀吉に股下を通らせる気か!」というわけです。利休は山門完成から2年後に切腹することになったのですが、真相はわかりません。
朱色の立派な山門ですが、残念ながら現在一般公開はされていないので、垣根越しにのぞいて見てくださいね。
この「大徳寺」で、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に行い、その菩提寺として「総見院(そうけんいん)」を建立したことから、その後有力武将らが次々と塔頭(たっちゅう)寺院を建立しました。
現在20を超えるたくさんの塔頭がありますが、特別公開の時以外は、一般公開されているのは通常4か所だけ!!
織田信長と一族の墓がある「総見院」、大徳寺再建に尽くした一休宗純の塔所として建立された「真珠庵」、金閣・銀閣・飛雲閣とともに「京の四閣」と称される「呑湖閣(どんこかく)」がある「芳春院」など、素敵な塔頭は沢山ありますが、これらも残念ながら普段は入ることができません。
しかし、大徳寺といくつかの塔頭は特別公開の日を設けていますので、ぜひ訪れてみてください。特別公開の時期については、「京都観光先取り情報誌・京ごよみ」(記事下部MEMO参照)でご確認ください。
戦国武将であった細川忠興は隠居後「三斎」と号しましたが、「高桐院」には、彼と正室「ガラシャ」の墓があります。細川ガラシャは、夫、忠興の強い反対にも屈せずキリシタンに改宗したことで有名ですが、実は、明智光秀の娘なんです。父親が殺害した織田信長と同じ、大徳寺内に仇の娘の墓があるなんて、何か因縁のようなものを感じますね。
三斎の墓は燈籠の形をしています。元々は千利休の燈籠でしたが、豊臣秀吉がたいそう気に入り、譲って欲しいと望まれたために、利休はわざと傘の一部を削って断り、三斎に贈ったものだということです。
その他にも、千利休邸からの移築の書院「意北軒(いほくけん)」、歌舞伎の創始者とされる「出雲の阿国」の墓など、見どころいっぱいの「高桐院」です♪
大徳寺北派の本庵「大仙院(だいせんいん)」は、千利休も親しく訪れた名刹です。国宝の本堂(方丈)は大徳寺山内で最古の禅寺客殿遺構で、そこから眺める、国の史跡及び特別名勝に指定された、枯山水庭園は見事です!
室町時代に造られた庭園は、わずか30坪の敷地に石と砂を組み合わせて、蓬莱山に見立てた大石を滝口とし、渓流が大河となるさまを表現しています。
大仙院の歴代住職中、三世の「小径(こけい)和尚」は、秀吉の命令により切腹した利休の首を加茂の河原から持ち帰り、手厚く葬ったと伝えられています。
また、沢庵漬けで有名な七世、「沢庵和尚」は、乱暴狼藉を繰り返していた若き日の「宮本武蔵」を捕まえて、杉の梢に吊るしあげたことから武蔵の師となったと、吉川英治の小説『宮本武蔵』に書かれて、そのエピソードが広まりました。
その他にも、客殿の襖絵は、狩野元信筆の「四季花鳥図」、狩野之信筆の「四季耕作図」など重要文化財で、見ごたえがありますよ♪
キリシタン大名として知らせている大友宗麟(おおともそうりん)も、自分の菩提寺として大徳寺に「瑞峯院」を建立しました。
重要文化財に指定された方丈、唐門、表門は、創建当時のままの姿を伝えていますが、キリシタン大名らしく、7個の石を十字架の形に配した石庭「閑眠庭(かんみんてい)」があります。
その他にも、蓬莱山半島に打ち寄せる荒波を表した「独坐庭(どくざてい)」も厳しい大自然の活動が感じられ見事な蓬莱山式庭園です。
静かに座ってこれらの庭を眺めていると、日頃の忙しさを忘れ、本来のおだやかな自分にかえることができそうですよ♪
大徳寺南派の本庵、「龍源院(りょうげんいん)」は大徳寺山門の前に、厳然と位置する大徳寺中で最も古い寺です。
本堂は重要文化財で、方丈北側の「龍吟庭(りょうぎんてい)」は室町時代当時のもので、青々とした杉苔は洋々とした大海原を表しています。
方丈東の「東滴壺(とうてきこ)」は日本で一番小さい石庭ですが、とても小さいのに底知れず深さを感じられる、気持ちが引き締まるような壺庭です。
また、ここ「龍源院」には、「日本で一番古い種子島銃」、豊臣秀吉と徳川家康が対局した四方蒔絵のとても豪華な「碁盤と碁筒」など、興味深い宝物があり、必見です!!
室町時代に応仁の乱で荒廃した「大徳寺」。それを復興したのが「一休さん」こと、「一休宗純」です。
トンチで有名な一休さんですが、その生涯は反骨の破戒僧!天皇の御落胤ながら、5歳で出家、2度の自殺未遂の後たどり着いたのが「ありのままに生きる!」肉を食し、酒を飲み、女好き‥。しかし人々の心を捉えた風変わりな説法。そんな一休さんが天皇から「応仁の乱で焼失した『大徳寺』の住職になるように」と勅命を受けたのは80歳の時でした。
再建のための寄進を求めて、一休さんが京の都や堺へ出かけると、豪商や武士だけでなく、庶民までも大徳寺再建の寄進をしてくれたということです。
その一休さんが伝えたとされるのが「大徳寺納豆」です。この納豆は糸を引く一般的な納豆でも甘納豆でもなく、お味噌やお醤油のような風味の塩辛い乾燥した納豆です。荒廃した京の都で、健康のために必要な塩分補給のため、また保存食として広めたということですが、大徳寺のお土産にいかがですか!?この大徳寺納豆を使った和菓子も、周辺の和菓子屋さんで売られていて、美味しいですよ♪
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