世界遺産「平泉」は実は「この世の極楽浄土」だった!

世界遺産「平泉」は実は「この世の極楽浄土」だった!

更新日:2015/09/28 18:16

岩手県平泉町の遺跡が世界文化遺産に登録されたのは、東日本大震災の3ヶ月後の2011年6月のことでした。その後、平泉を訪れる観光客の数は大いに増え、ここ3年連続で200万人を超えています。これから訪れようという方も多いに違いありません。

ここでは、平泉の世界遺産とはそもそもどんなものなのか、どう見ればいいのかなど、これから平泉に行こうという方の旅がより充実したものになる情報を提供したいと思います。

平泉にある5つの世界遺産

平泉にある5つの世界遺産

提供元:ウィキペディア(竹麦魚(Searobin)氏撮影)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Konjikido-…地図を見る

世界遺産のリストには「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」という名前で平泉町内にある以下の5つの遺産が登録されています。

中尊寺(ちゅうそんじ):奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉開府に当たって最初に造った寺院。全面が金箔で覆われた金色堂(こんじきどう)は日本の国宝第一号で、阿弥陀堂であると共に、清衡以下、二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)の遺体と四代泰衡の首級が眠る葬堂でもある。(写真は金色堂を守る「新覆堂」です)

毛越寺(もうつうじ):奥州藤原氏二代基衡が造営。往時は中尊寺を上回る規模の大寺院だったらしい。当時の浄土庭園が今も良好な状態で残る。特に鑓水遺構が残る浄土庭園は日本中でここだけ。

観自在王院跡(かんじざいおういんあと):二代基衡の奥方が建立した寺院跡。毛越寺より規模は小さく簡素なものの、やはり浄土庭園が残り、現在は史跡公園となっている。

無量光院跡(むりょうこういんあと):奥州藤原氏三代秀衡が建立した寺院跡。京都の平等院鳳凰堂と同様の建造物が建っていたという。現在、建物跡の前にあった「梵字が池」の復元工事中。

金鶏山(きんけいざん):平泉のランドマークともなっているピラミッド型の山。山頂に奥州藤原氏時代の経塚が9基もあるなど、当時信仰の対象となった山である。三代秀衡が雌雄一対の黄金の鶏を埋めたとの伝承が残る。

平泉町は今でこそ人口8,000人弱の小さな町ですが、奥州藤原氏が本拠としていた平安時代末期には人口10万人を数え、何と京の都に次ぐ日本第二位の都市だったそうです。…などという予備知識があると、平泉観光はもっと楽しめると思うんですよね。何と言っても、中尊寺の金色堂、毛越寺や観自在王院跡の浄土庭園以外はほとんどが遺跡として残っているわけですし。そこに想像力の翼を広げる必要があったりするわけですね。

「供養願文」に書かれている復興への願い

「供養願文」に書かれている復興への願い
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で、もう一つ知っておいてほしいのは、これらの遺跡群が何のために造られたかということです。何も知らなければ、当地で勢力を振るった一豪族が己の権勢を誇るために有り余る金に飽かせて造らせたのだろう、というように見えるかもしれません。

でも、それは全然違うんです。

清衡が中尊寺を建立する際に起草された「中尊寺建立供養願文」に次のような一節があります。鐘楼には大きな大きな鐘が掛けられたのですが、その鐘の音は、どこまでも響いていって、あまねく皆平等に、苦しみを抜いて楽を与える、と書かれています。そして、ここ東北では官軍の兵と蝦夷の兵が戦で命を落としたことが昔から幾多もあったこと、獣や鳥や魚や貝といった生き物も過去から現在に至るまで数え切れないくらい人間に殺されてきたことを挙げて、この鐘が響く度に、心ならずも命を奪われてしまった者たちの霊を浄土に導きたいと、そのような思いが綴られています。

死んだ者たちの敵味方は問わない。それだけではなく、人間かそうでないかも問わない。とにかく、自分の生を全うできなかったあらゆる生き物の霊を、皆平等に浄土に導きたい、そのような思いが中尊寺には込められているんですね。

「供養願文」にある通り、東北は古来、朝廷の「征夷」の対象となってたびたび戦乱に見舞われました。その度に攻める側も守る側も、たくさんの人が命を落としたわけです。そうした人たちを浄土に導くと共に、清衡の頭の中には戦乱で荒廃した東北の地とそこに住む人々の心、その両方の復興も大きな課題としてありました。清衡は中尊寺を建立することで、亡くなった人々を浄土に導くと同時に、生きている人々をも浄土に導こうと考えたのです。

中尊寺の金色堂も、毛越寺や観自在王院跡の浄土庭園も、いずれも浄土を表しています。金色堂が金で覆われているのは、決して「成金趣味」なのではなく、「仏の世界は皆金色」という仏典にある表現を具現化したものですし、浄土庭園もやはり仏典にある浄土の情景を具現化したものです。つまり、そうしたものを造ることで、浄土というのが死んだ後の世界にあるだけでなく、今生きているこの地も浄土(此土浄土)なのだということを伝え、戦乱で荒廃した土地や人心を復興に導くことに奥州藤原氏のねらいはあったのです(写真は毛越寺の浄土庭園)。

ユネスコ憲章にも共通する理念

ユネスコ憲章にも共通する理念
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清衡自身、戦乱のために悲劇的な前半生を送っています。幼いころに起こった前九年の役では父親を殺され、母親は父親を殺した相手である清原氏に嫁がされました。そのお陰で清衡自身も命は助けられましたが、その後起こった後三年の役では母親が生んだ異父弟の家衡に妻子を殺され、その家衡を自らの手で討たざるを得ませんでした。自らもこれ以上ない悲劇を体験した戦乱。そうした戦乱で多くの人が亡くなった東北の地をそのまま浄土とする、それが清衡の宿願だったわけです。

「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」というのはまさにそのような意味なのですね。奥州藤原氏はこの東北の地に、人々が争いなく平和で暮らせる浄土を造ろうとしたのです。そして実際、清衡が初代となった奥州藤原氏が東北の地を実質的に治めてから、1189年に源頼朝に攻め滅ぼされるまで、東北はおよそ百年、外から攻められることのない平和な地となりました。そうした奥州藤原氏の思いは、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という、他でもないユネスコ憲章の前文の精神と共通するものがあると評価されたそうです(写真は無量光院の跡とその向こうに見える金鶏山)。

我々が住んでいるこの地こそが浄土

金色堂や浄土庭園以外、平泉の世界遺産の構成遺産は当時の建物等が現存しない遺跡となっていますが、ぜひそれらを当時の奥州藤原氏が相次ぐ戦乱を乗り越えて「我々が住んでいるこの地こそが浄土である」という思いで造ったことに思いを馳せつつ見てみてください。きっとそれぞれの構成遺産の見え方が変わってくると思います。

「この世の浄土」を見に行く旅、きっと日常を離れて、日頃の疲れが癒される旅となると思います。この記事を読んでくださった方の平泉への旅が、より楽しく充実したものとなりますように。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/05/25 訪問

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