主に南北朝時代(1336年〜1392年)、時の権威や形式を軽んじ、粋で華美な服装や派手な振る舞いを好む美意識を表して用いられた言葉、婆娑羅(ばさら)。歴史文学の古典『太平記』には、婆沙羅大名の一人として佐々木道誉(ささき どうよ)が挙げられています。
延文年間(1356年〜1361年)に現在の滋賀県にあたる近江(おうみ)の守護職であった佐々木道誉が、この地に開基したのが「青岸寺」の源流となる“米泉寺(べいせんじ)”でした。後に兵火で焼失しましたが、本尊の聖観世音菩薩坐像のみ無事で、小堂に祀られることになったのです。
時を経て江戸時代、1650年(慶安3年)に彦根・大雲寺の要津守三(ようしん しゅんさん)和尚と伊藤五郎助が再興に尽力。殿堂や加羅が速やかに建立されましたが、1656年(明暦2年)に五郎助が逝去してしまいます。和尚はその功績を後世に伝えようとし死後、五郎助に贈られた称号・諡(おくりな)の“青岸宗天”から寺名を「青岸寺」としたのです。
山門を入るとシダ植物の一つである“岩苔”とも呼ばれるイワヒバ(岩檜葉)が、苔状になって参道の左右に繁茂しています。大きな枝振りの百日紅の後方にあるのが「青岸寺」の本堂です。右手側に進むと庭園への入り口があります。
「青岸寺」の庭園は石や砂を用いて山、川、池といった自然の風景を見立てた枯山水で、観音菩薩様の住処となる“補陀落山(ふだらくせん)”の世界を表現しています。要津守三和尚の入山と共に築庭され、「青岸寺」三世・興欣(こうきん)和尚の1678年(延宝6年)に完成しました。
こちらは“杉苔”で水を表わすという、非常に珍しい枯山水。また雨が降った後には、実際に水が溜まり池へと姿を変える趣向も加わって、より一層、特徴的な庭園となっています。1934年(昭和9年)には国の名勝に指定されました。
客殿には、庭園を眺めながら精進料理を楽しめる、特別拝観が可能なお座敷も用意されています(完全予約制)。この他、予約無しで気軽にお抹茶や珈琲を頂ける喫茶も整っているのも嬉しいポイントです。
「青岸寺」の宗派・曹洞宗には、福井県にある永平寺と神奈川県にある総持寺(そうじじ)と二つの大本山があります。渡り廊下を利用して奥に進むと、大本山の一つである永平寺六十四世・森田悟由禅師の仮住まいとして作られた書院「六湛庵(ろくたんあん)」になります。本堂を分岐点として、書院と客殿が庭園を囲むようにL字型になっています。
「青岸寺」に残された『築庭記』に“入聖の石橋”と記された花崗岩で作られた石橋を始めとして、“運心の燈籠”と呼ばれる石燈籠、仏教で多く見られる仏像の三体一組の形式である三尊仏を表した三つの立石の“三尊石”、滝石組、護岸石組などが配置されて力強さを感じる枯山水庭園となっています。
春には皐月(サツキ)、夏には梔子(クチナシ)、桔梗(キキョウ)、秋には紅葉、冬には雪吊りといった季節毎に異なる彩りを見せます。因みに主に北陸、東北地方で施される、枝を縄で吊るして雪の重さに耐え得る対策“雪吊り”の南限の地域が「青岸寺」のある滋賀県米原市とされています。
“びわ湖一〇八霊場会・第五十三番札所”、“井伊家ゆかりのふく福めぐり札所”、“近江七福神霊場札所”と各種の札所にも名を連ねる婆沙羅大名・佐々木道誉ゆかりの滋賀「青岸寺」は、どの季節、どんな天候でも風情ある趣き漂わせる寺院です。
近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれ、京極道誉とも呼ばれる佐々木道誉。その佐々木氏が崇敬したその呼び名の通り「沙沙貴(ささき)神社」が同じ滋賀県にあります。そちらの詳細をまとめた記事へのリンクが下部の関連メモにありますので、宜しければ御確認下さい。
以上、“杉苔”を用いた珍しい枯山水の庭園を持つ滋賀「青岸寺」の御紹介でした。
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