山口・小郡「其中庵」放浪の俳人・種田山頭火の安住の地へ

山口・小郡「其中庵」放浪の俳人・種田山頭火の安住の地へ

更新日:2017/11/11 19:28

紀行文「おくのほそ道」を書き、後に“俳聖”と呼ばれた江戸時代の俳人・松尾芭蕉。時代は下り“昭和の芭蕉”と呼ばれた、お酒と放浪の旅を愛した人物がいます。俳人・種田山頭火。
彼は波乱に満ち溢れた生涯を送り、各地を転々としながら定型・五七五の俳句ではなく自由なリズムで詠む自由律俳句を多く残しました。そんな種田山頭火が放浪の旅に出てから一番長く定住した場所・山口県山口市小郡「其中庵」を御紹介致します。

新山口駅・南口「種田山頭火之像」

新山口駅・南口「種田山頭火之像」
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JR新山口駅の南口から出ると左手側に駐車場とタクシー乗り場、右手側にはバスのロータリーとなっています。その中央の部分には花壇と時計台があり、さらにその先に“昭和の芭蕉”とも呼ばれ、お酒と放浪の旅を愛した俳人・種田山頭火(1882年〜1940年)の像が建てられています。

こちらの像の台座には1930年(昭和5年)の旅の途中、ひと休みした折に詠んだ“まったく 雲がない 笠をぬぎ”という自由律俳句が山頭火の名前と共に刻まれています。また、この刻字は種田山頭火の直筆を復元したものです。

まずは新山口駅の南口にある「種田山頭火之像」に立ち寄ってから、反対側の北口に回り「其中庵(ごちゅうあん)」へと向かいましょう。

俳人・種田山頭火と「其中庵」の石柱

俳人・種田山頭火と「其中庵」の石柱
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種田山頭火は1882年(明治15年)に山口県佐波郡西佐波令村(現在の山口県防府市八王子)に生まれます。周陽学舎を首席で卒業後、山口尋常中学校を経て、東京専門学校、早稲田大学へと入学しますが後に神経衰弱のため退学して郷里へ戻ります。

結婚を経て、俳句誌「層雲」にて頭角を表し「山頭火」の号を用い始めます。1916年(大正5年)事業に失敗して破産、熊本へ転居。一時期、東京で過ごしますが熊本に戻って報恩禅寺にて出家得度します。1926年(大正15年)、山頭火44歳の時に禅宗の修行僧の服装である雲水姿で旅に出ます。西日本を中心に放浪しながら俳句を作り続け、自由律俳句の俳人として名を高めていったのです。

「其中庵」は新山口駅の北口から禅定寺山へと向かい徒歩で約15分の場所で、国道9号線を渡ってから緩やかな坂道を上がって行きます。途中には「其中庵」と「種田山頭火」と書かれた案内の石柱も立っています。

安住の地・山口県山口市小郡「其中庵」

安住の地・山口県山口市小郡「其中庵」
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不安定な旅の生活に限界を感じ始め、種田山頭火は自らの安住の地を求めます。適した場所を探すのに困難を極めましたが、1932年(昭和7年)、山頭火50歳の時に第一句集『鉢の子』を刊行、加えて友人らの尽力により山口県山口市小郡(おごおり)に庵を結び「其中庵」と名付け生活を始めます。

手前の引戸から入ると土間があり、左手側に低い上り框の付いた三畳間と板間、四畳半と三畳の和室と分けられています。種田山頭火は1932年(昭和7年)9月から1938年(昭和13年)10月まで、この地で暮らします。

現在の其中庵は、1992年(平成4年)に復元されたものとなっています。庭先には“春風の鉢の子一つ”と山頭火の句が仮名書きで刻まれた「寝牛の碑」があります。山頭火の師で俳句誌「層雲」の主催者でもあった俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい、1884〜1976年)によって選ばれたものです。

因みに「鉢の子」とは托鉢僧(たくはつそう)が手に持つ鉄の鉢のこと。その他には、井戸や休憩のための東屋もあります。

「其中庵」の由来と「其中庵休憩所」

「其中庵」の由来と「其中庵休憩所」
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「其中庵」の名前は法華経の普門品(ふもんぼん)の章にある“其中一人作是証言(ごちゅういちにんさぜしょうごん)”という一節に由来します。種田山頭火が好んだ言葉で、“苦難に苛まれた時、その中の一人が「南無観世音菩薩」と唱えると皆が救われ、悩みから開放される”という意味です。種田山頭火は自分を“其中一人”と置き換えて、その一人が住む庵として「其中庵」と名付けたのです。

「其中庵」から西側に少し上がると「其中庵休憩所」があり、その前には種田山頭火の句碑が建てられています。10歳の時に母親を亡くし祖母の手で育てられた山頭火。“母よ うどんそなへて わたくしもいたゞきます”と母親への真っ直ぐな気持ちが表された句が刻まれています。

「其中庵休憩所」の中には御手洗や座敷があります。また山頭火や友人たちが写った大きな写真パネルなども飾られていますので「其中庵」と合わせて立ち寄ってみて下さい。

「其中庵」からの町並みと「種田山頭火」の関連スポット

「其中庵」からの町並みと「種田山頭火」の関連スポット
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種田山頭火が定住のための庵を結ぶ土地としての望みは“それが山村であること、そして水のよいところか、または温泉地であること”でした。山の中腹にある「其中庵休憩所」から振り返ると山口市の町並みを眺望できます。当時の町並みを想像しながら景色を楽しむのもまた一興です。

種田山頭火はこの場所で多くの俳句仲間と交流して、4つの句集を出版するなど俳人として充実した時期を過ごしました。また「其中庵」で過ごした約6年間は放浪の旅に出てから生涯を終えるまで間で一番長い定住の時間でした。

坂を下って国道9号線を北上すれば、種田山頭火の展示室が備えられた「山口市小郡文化資料館」もありますし、さらに先に進むと温泉場として有名で種田山頭火の句碑も点在する「湯田温泉」になります。少し足を伸ばして巡ってみてはいかがでしょうか。

種田山頭火の安住の地。山口・小郡「其中庵」のまとめ

「其中庵」の周りには御茶、柿、オゴオリザクラ、ナギの樹々が植えられて自然にも囲まれ、“いつしか 明けてゐる 茶の花”と書かれた句碑もあります。種田山頭火の句集を読んでから訪れるとさらに楽しめる事でしょう。

下部の関連MEMOには、山口の生んだ偉大な文学者の一人である詩人・中原中也を顕彰する「中原中也記念館」、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した島「巌流島」の紹介記事へのリンクもありますので、そちらも合わせて御確認下さい。

以上、お酒と放浪の旅を愛した俳人・種田山頭火が安住の地に選んだ山口県山口市小郡にある「其中庵」の御紹介でした。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/03/28 訪問

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