写真:Naoyuki 金井
地図を見る通りの両側には、粋な街路灯が12本立てられています。表裏24面あるこの街路灯は『地口行灯』と呼ばれるものです。
“地口”とは、ダジャレよりちょっと創造性のある江戸時代の洒落言葉のことで落語などにも使われています。
有名な文句をもじったものでは、「とんで湯に入る夏のぶし」(飛んで火に入る夏の虫)や、「あとの号外先にたたず」(後の後悔先にたたず)といった具合です。
その地口を行灯に書いて祭礼などで競うように飾るのが江戸の風習で、伝法院通りでは、伝法院境内にある鎮護堂(おたぬきさん)の縁日に飾られたのが始まりです。
クスッと笑える小粋なネタを見つけてください。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る「火事と喧嘩は江戸の華」と云われるほど、火事が大変多かったのが江戸時代。
江戸時代約267年の内、江戸では49回の大火が発生しています。
その大火の内、特に被害の大きかった「明暦の大火」「目黒行人坂大火」「丙寅の大火」を“江戸三大大火”と呼んでいます。
幸いなことに浅草寺は本堂を始めとして五重塔ともども江戸の大火を逃れたのですが、皮肉なことに、どちらも東京大空襲で焼失したのです。
いづれにせよ、大火以外も含めれば江戸時代には、1798回を超える火事が起こっており、それに伴い町中のあちこちに“火の見櫓”が見られたのも江戸の風情と云えるのです。
伝法院通りで火の見櫓を幾つ見つけられるでしょうか。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る江戸歌舞伎で有名な演目の一つに『白波五人男』があります。
石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊団を描き、盗賊の首領・日本駄右衛門、女装の怪盗・弁天小僧、神出鬼没の盗賊・忠信利平、最年少の盗賊・赤星十三郎、元漁師の船強盗・南郷力丸の五人の物語で、実際の盗賊や市井の人物をモデルにしています。
当時、浅草猿若町(現・台東区浅草6丁目)にあった江戸三座の一つ“市村座”で1862年に初演され、その後大人気となった演目です。
江戸時代の大衆演劇の華である歌舞伎、その中でも一世を風靡した『白波五人男』が、現代によみがえり商店街に潜んでいるのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る商店にとっての看板は、云わばステイタス・シンボルです。
特に路上に建てる大きな“建看板”は経費や製作費がかかり、日本橋の越後屋(現・三越)のような豪商でなければ出せないため、贅を尽くした看板が人々の目を楽しませました。
一方、庶民の街浅草では、そのような贅沢な看板は出せないため、様々なアイディアが考えられました。
木材を素材として、字の読めない人でもわかるように“ありのまま”をストレートに表現した小さな看板である『模型看板』を考案したのです。
商品そのものや関連する品の形などを表し、インパクトのある江戸っ子の美学が詰め込まれた看板を楽しんで下さい。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る“金に困った貧しい人に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金を分け与える”という義賊伝説があるのが『鼠小僧』。
稀代の大泥棒、鼠小僧の自白調書によると、10年間で荒らした屋敷は95ヶ所839回で、盗んだ金は約3000両と供述しています。
このような犯罪者が、ヒーロー扱いされるのは、先の義賊伝説が根強く語り継がれているからです。
その伝説の根拠は、捕縛された後の家宅捜査で盗まれた金がほとんど発見されなかったからですが、研究家の間では、ほとんど博打と女と酒に浪費したというのが通説になっているようです。
真偽のほどはともかくとして、今日も呉服屋の上で窃盗をしている愛すべきシンボルなのです。
いかがですか、伝法院通りの江戸の粋の一端に触れられたでしょうか。江戸の趣向はこれだけでなく、まだまだ沢山仕掛けられています。
伝法院通りの粋を探しながら食べ歩いてみれば、浅草の観光もより楽しくなること請け合いです。
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(2024/3/28更新)
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