写真:乾口 達司
地図を見るまずは写真をご覧ください。丘陵の中腹、山の地肌が露出しているところから、1996年、大量の銅鐸が発見されたのでした。その数、何と39個!一カ所から発見された銅鐸としては日本一の数を誇り、現在、これらは国宝に指定されています。
しかし、こんな山中からどういった経緯で銅鐸が発見されたのか、疑問を抱く方もいらっしゃるでしょう。実は加茂岩倉遺跡の発見は、付近を通る農業道路の建設工事がきっかけでした。遺跡の発見以前は小さな水田があるだけの山中の谷間で、普段、人が足を踏み入るようなことのないところだっただけに、銅鐸の大量発見は考古学者のみならず一般のものまでを大いに驚かせたものです。実際、現地に立つと、よくこんな山中に人知れず大量の銅鐸が眠っていたものだと感心することでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る加茂岩倉遺跡の位置する出雲の地で大量の銅鐸が発見された意義はきわめて重要です。これまで銅鐸は近畿地方から東海地方にかけて数多く発見されており、九州を中心に栄えていた銅剣文化とは一線を画した銅鐸文化圏が近畿地方に存在したと考えられていました。1984年から翌年にかけて、加茂岩倉遺跡の西方3キロあまりに位置する荒神谷遺跡から大量の銅剣が発見されたことにより、出雲は九州の銅剣文化圏に属すと考えられていましたが、加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲が銅剣文化と鐸銅文化の両方を併せ持つ特異な地域であったことが判明したわけです。そして、それは近畿=銅鐸文化、九州=銅剣文化といった従来の図式に再考をうながすことにもなりました。加茂岩倉遺跡が考古学の常識を覆す遺跡であるというゆえんです。
嬉しいのは、銅鐸の発見された状況がレプリカを使って再現されていること。こうやって再現されていると、発見から20年近くが経過していてもリアリティが感じられますよね。
写真:乾口 達司
地図を見る写真で注目していただきたいのは、銅鐸の埋められ方。加茂岩倉遺跡の場合、大きいもののなかに小さいものを入れ込む入れ子状態で埋められていた銅鐸が、39個のうち、26個13組もあったのです。その埋納方法には何らかの意図があったとも考えられますが、現在のところ、謎のまま。いったいどのような意図があったのでしょうか。
写真:乾口 達司
地図を見るすぐ近くには加茂岩倉遺跡の世界を学ぶために設けられた「加茂岩倉遺跡ガイダンス」と呼ばれる施設もあります。館内には出土した銅鐸のレプリカも並べられていますが、本物と見間違えるほど精巧に復元されているため、加茂岩倉遺跡の銅鐸ならではの特異性をこの目で感じることができるはず(本物は島根県立古代出雲歴史博物館に展示)。
なかでも、注目していただきたいのは、写真の中央、「鈕」(ちゅう)と呼ばれる吊り手に刻まれた「×」の刻印。加茂岩倉遺跡から発見された銅鐸39個のうち、14個に「×」が刻まれていました。「×」はほかには荒神谷遺跡から出土した銅剣群にしか見られず、加茂岩倉遺跡の銅鐸と荒神谷遺跡の銅剣との強い結びつきを物語っています。加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡出土の遺物にしか見られない「×」の刻印を通して、古代出雲世界に思いを馳せてみてください。
写真:乾口 達司
地図を見る加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸には、ほかに当遺跡ならではの造形も見られます。写真の銅鐸もその一つ。「鈕」の亀裂を跨ぐようにして人の顔が描かれてているのが、おわかりになりますか?さまざまな文様があれど、人面を刻んだものは珍しいため、必見です。
ほかにも、トンボやワラビなどの動植物、四角い渦巻きなどの珍しい文様も見られるため、その一つ一つをじっくり観察しながら、その魅力をご堪能ください。
加茂岩倉遺跡の重要性が、おわかりいただけたでしょうか。付近には上で紹介した荒神谷遺跡も存在しており、あわせてめぐるのも一計。加茂岩倉遺跡を訪れ、古代出雲の神秘な触れてみてください。
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(2024/4/25更新)
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