井波彫刻は瑞泉寺再建の折に京都本願寺の御用彫刻師が派遣されて、大工に教えたことが始まりとされています。瑞泉寺は門前町よりやや高いところ、石垣のうず高く積まれた大楼壁の先に伽藍を広げています。自然石を積み上げた野面積みで、図らずも戦国の城の石垣を彷彿とさせる大楼壁は、高さ4,5メートルで、長さは80間に及びます。
石垣の目的は門前町での出火が境内にまで及ばないようにする防火にあるのですが、戦国期の絶大な勢力を誇り越中一向一揆衆の拠点となった頃の瑞泉寺の面影を見ているような気になります。
山門は総ケヤキ造りで、天明5(1785)年に再建工事を始め、完成に24年を費やした代物になります。左右に山廊を持つ禅宗様式、二層二階の入母屋造りである。そして、このあたりでは珍しい赤瓦による本瓦葺き。二層二階とあって2階分、桁と梁を支える組物が3段にわたって複雑な幾何学構造を棟の下で展開しており見ものです。
組物も美しいですが、瑞泉寺の山門の真骨頂は彫刻。山門からすでに井波彫刻の本領が発揮されています。
扉には巨大な寺紋があしらわれ、長押や柱間、この他あらゆる場所に花七宝、毘沙門亀甲、松皮菱に花菱、紗綾型模様といった伝統の幾何学模様や鉄線花文らしき花の文様などがあり、柱間上部の蟇股には中国の伝承にある「八仙」を題材にした彫刻が見られます。山門の端から端まで匠の技が冴えわたっていて、もはや正気の沙汰とは思えません。
本堂は明治18(1885)年の再建で、単層入母屋造り、450畳は全国で4番目の大きさを誇ります。遠くから見ると、銅板葺きで比較的新しそうな建物に見えます。しかし、近くで見ると木の力強さや美しさが感じられるものとなっており、社寺建築の美しさを実感させてくれます。
向拝(本堂正面の庇のところ)部分の蟇股(かえるまた、上の重荷を支えるための部分)があり、やはり彫刻師には絶好のキャンバスに見えたのでしょう、木彫作品でてんこ盛りとなっています。
6つの蟇股すべてが精密な龍の透かし彫りです。隅垂木(すみたるき、垂木は屋根を支える材のことで、隅の部分の垂木を指す)の下、組物の間から顔を覗かせ、朝日をまぶしそうに受けていたのも龍でした。
本堂の中も立派であり、高い天井は豪華な小組格天井、唐狭間の欄間は金箔の貼られた鳳凰です。写真は手前が本堂、奥がこの次に紹介する太子堂になります。
本堂の横から渡り廊下で結ばれた太子堂は、大正7(1918)年の造営。後小松天皇より下賜された2歳の聖徳太子の南無仏像が祀られています。
太子堂のハイライトであり、瑞泉寺のハイライトでもある手挟(たばさみ)の彫刻。向拝の柱の組物からさらに内側に向かって屋根を支える4つの手挟には、外側に「桐と鳳凰」、内側に「波と龍」の彫刻が施されており、これこそ精緻の極みと呼ぶにふさわしい代物です。
鳳凰や龍も素晴らしいですが、出色なのは奥行きのある波や、内側から外に向かって枝を伸ばし、葉を広げる旺盛な感じが見事に出ている桐。波や枝葉の幾重にも重なって見える立体感が1本の木で表現されているというから驚きです。
太子堂は蟇股も良いです。雉、獏、孔雀、馬、兎、鳳凰、龍、麒麟、唐獅子などの動物の彫刻がずらりと並び、一つ一つに抜け目ない彫刻師の匠の技が感じられます。木彫で彫られるひと通りの動物たちが通覧できるとあり、まさしく一級の木彫美術館の感があります。
建築の観光となると、西洋風な近代建築を好む方々は多く見られますが、日本建築はやや少ない印象を受けます。外観だけでも破風やら組物やら蟇股やら、同じ色をした木材に様々な名前が付けられ、難しそうなところが確かにあります。
しかし、近代文学に出てきた難しい言葉を一個一個辞書で調べるように、こうした用語を一つずつ確かめながら建物を見ると、その個性やその建築技術の高さが分かってきます。日本建築の本場は当然ここ日本であり、日本建築が面白くなると旅行先での眼に見えてくるものもぐっと増えます。
北陸新幹線が開通し、駅の置かれることとなった高岡市より、バスで南へ1時間足らず。井波・瑞泉寺で、気になったことはお寺の方に聞きながら、日本建築の扉を試しに叩いてみてはいかがでしょうか。
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