写真:乾口 達司
地図を見る国の史跡に指定されている宮山古墳(みややまこふん)は御所市に位置する前方後円墳。その所在地の地名をとって「室の大墓」(むろのおおはか)とも呼ばれています。4世紀末から5世紀前半に築かれたと考えられている前方後円墳で、墳丘の長さは238メートル。全国で18番目の大きさを誇ります。後円部を東に向けて横たわるその墳丘のまわりにはかつて周濠がめぐらされており、現在も墳丘の東側と南側にその一部が残っています。
写真は南の周濠側から撮影したもの。写り込んでいるのは古墳の後円部に当たり、画面の左にはさらに前方部がのびています。居並ぶ民家からも宮山古墳の巨大さがおわかりいただけるのではないでしょうか。
写真:乾口 達司
地図を見る国の史跡にも指定されているこんな立派な古墳、さぞかし立ち入りが禁止されているのだろう。そう思い込んでいる方も多いはず。しかし、宮山古墳の場合、実は誰でも墳丘に登ることが出来るのです。写真は墳丘の東側に接して建つ八幡神社。画面の左端に見られる鳥居から登り道がのびています。急な階段を登っていくと、宮山古墳が3段に築成された古墳であることがわかるはず。足もとには充分注意して墳丘にお登りください。
写真:乾口 達司
地図を見る登り道を登り切ると、そこは後円部。被葬者を安置した埋葬施設が存在する、古墳にとって最重要区画です。宮山古墳の場合、南北に並ぶようにして2箇所の埋葬施設(竪穴式石室)が存在します。写真は南側の埋葬施設を撮影したもの。南側の埋葬施設は開口しています。ちなみに北側は石室を覆う天井石が露出していますが、未発掘のため、詳細は不明です。
写真:乾口 達司
地図を見る開口部から南側の埋葬施設を覗き込んでみましょう。覗くとすぐ目の前に写真のような物体が目に飛び込んで来ます。これは被葬者をその内部に安置した長持型石棺。石棺に付随する丸い部分は縄掛突起と呼ばれており、石棺を引っ張る際、縄を引っ掛ける部分。縄掛突起の巨大さからも、被葬者の強い権勢がしのばれます。
写真:乾口 達司
地図を見る被葬者の権勢は出土した埴輪群からもしのばれます。石室の周囲には方形の埴輪列が二重にめぐらされており、そのなかには家型埴輪のほか、楯や靭などの珍しい形象埴輪が含まれていました。写真は靭型埴輪(「靭」は弓矢を入れる箱)を復元したもの。高さは147センチメートルと大きく、見るものを驚かせます。出土した埴輪群は、現在、橿原市の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で見ることができます。宮山古墳と橿原考古学研究所附属博物館とは車で20分ほどの距離なので、宮山古墳を見学した後、橿原考古学研究所附属博物館を訪れ、珍しい埴輪群を見学するのも一計でしょう。
被葬者の候補としては、葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)の名が挙げられています。葛城襲津彦は葛城氏の始祖王とされる人物。「日本書記」によると、履中・反正・允恭の3天皇の外祖父となり、朝鮮半島に対する外交や軍事をになったとされます。古代朝鮮半島の歴史書『百済記』の逸文に登場する「沙至比跪」(さちひこ)と同一人物であると考えられている点などからも実在性が高いとされています。宮山古墳の築造時期と襲津彦の活躍した年代とはほぼ重なりますが、果たして本当に襲津彦が埋葬されていたのでしょうか。もしも、それが真実だとすると、4世紀から5世紀にかけて、大王家と姻戚関係を結び、絶大な力を誇りながらやがて歴史の彼方に消えていった大豪族・葛城氏の実像に迫るのに格好の古墳であるといえるでしよう。ぜひ、ご自身で推理してみてください。
宮山古墳の壮大さと重要性がおわかりいただけたでしょうか。宮山古墳の周辺には大規模集落の痕跡を残す中西・秋津遺跡や、かの石舞台古墳に匹敵する規模を持つ條ウル神古墳など、数多くの遺跡や古墳が広がっています。それらも含めて宮山古墳とその周辺を散策し、謎の多い古代の大豪族・葛城氏の謎に迫ってください。
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(2024/4/25更新)
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