信長滅べど丹波に残りし織田家の血脈〜丹波市柏原〜

信長滅べど丹波に残りし織田家の血脈〜丹波市柏原〜

更新日:2015/08/28 13:30

戦国時代の「織田」といえば織田信長ですが、彼は天正10(1582)年に本能寺の変により自刃します。信長の子・信忠もまた自害し、残された信忠の子は関ヶ原の戦いで敗れ、改易されて高野山で病死しました。

こうして織田家嫡流は断絶しましたが、信長の次男・信雄は血脈を伝え、子孫が小大名として明治維新を迎えています。丹波柏原藩2万石もその一つ。織田家ゆかりの史跡が多く残る現・兵庫県丹波市柏原をご紹介します。

まずは、「柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館」へ

まずは、「柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館」へ
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最初に足を運びたいのは、地元の資料を展示している柏原歴史民俗資料館です。柏原と織田家の繋がりを紹介しており、武具や城下絵図、柏原藩の藩主の居館である柏原陣屋を模型で復元したものなどが見られます。

また、この資料館は田(でん)ステ女記念館も併設しています。柏原が生んだ、松尾芭蕉とほぼ同年代の俳人である田ステ女の生涯を伝えています。

歴史と風格を感じる「柏原藩陣屋跡」

歴史と風格を感じる「柏原藩陣屋跡」
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柏原の歴史を学んだら、いよいよ柏原藩陣屋跡へ。柏原藩陣屋跡は資料館の向かいになります。

陣屋は7の門と表御殿・中御殿・奥御殿からなる主屋、藩政を行う御用所、藩校からなっていましたが、現存するのは正徳4(1714)年に造営された表御門にあたる長屋門と、文政3(1820)年に再建された表御殿の3分の2ほどです。

しかし、それでも千鳥破風から唐破風の流れる檜皮葺きの表御殿の玄関は威風堂々とした佇まいで、木彫も施されており、一見に値する風格を備えています。大書院も再建当時の姿を残しており、見ものです。

山奥の町の意外な洋館「たんば黎明館」

山奥の町の意外な洋館「たんば黎明館」
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丹波柏原藩のその後を少しだけ偲べる場所もあります。それが「たんば黎明館」です。

幕末期より新政府側に与して新しい時代を迎えると、国家を担う人材を育成すべく、明治18(1885)年に学校が設立されました。それが氷上第一高等小学校。この建物です。のちに、病院や女学校などを経て現在に至っています。

町なかで強い存在感を放つクリーム色をした擬洋風建築で、イオニア式の柱などから意匠のこだわりが強く感じられます。実際に、専門家から「明治時代初期の教育施設として日本でも五指に数えられる建物」と評価された建物です。

現在は、フレンチレストランやライブラリーカフェなどを備えた施設になっているので、ここで少し休憩するのも良いでしょう。

小さな社と侮るなかれ「建勲神社」

小さな社と侮るなかれ「建勲神社」
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たんば黎明館から信号機のある交差点を西へ向かって歩くと、小さな神社が見えてきます。名前は「建勲(たけいさお)神社」。実はこれが織田信長を祀る神社です。建勲神社はここ以外に京都市と、同じく織田家が治めた天童藩、すなわち山形県天童市の3社しかありません。

鳥居をくぐると、ちゃんと建勲神社についての案内板があります。これによると、元禄8年に当時の藩主が藩邸内に祠を建てて信長を祀ったことが始まりで、明治2年に朝廷より「建織田社」の神号を賜り、翌年に建勲神社に改められ、明治13年にこの地に建立されたそうです。

小ぢんまりとした社殿ではありますが、軒丸瓦にはしっかりと織田家ゆかりの木瓜紋が付いています。信長公に手を合わせましょう。

小さな町をめぐる愉しみ

柏原は小さな盆地につくられた小藩の陣屋町です。そのため、紹介した場所以外にも、織田家廟所、織田神社、柏原八幡宮など、歩いて回れる範囲に織田家の足跡や、往時の陣屋町での信仰、営みを垣間見ることができます。

観光地としてあまり注目されないがゆえに、静かに歩くことができるのもまた魅力です。ぽっかりと空いた休みを埋めたり、有名観光地をめぐる際の箸休めのようなつもりで訪れてみて下さい。「こんな場所にこんなものがあるのか」と、思った以上の感慨を得られると思います。

掲載内容は執筆時点のものです。

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