夏目漱石は落ちこぼれ!?鎌倉・円覚寺で漱石作品を味わう贅沢

夏目漱石は落ちこぼれ!?鎌倉・円覚寺で漱石作品を味わう贅沢

更新日:2016/02/05 14:52

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
漱石は、若い頃から「自分のしたいことが解らない」という空虚さを抱えており、英国留学帰国後は強度の神経衰弱、現在で云う“うつ”状態でした。
そこで知人の紹介により、明治27年12月〜1月にかけて鎌倉の『円覚寺』に参禅。
その結果、漱石は悟りを開くことはできませんでしたが、この時の見聞を様々な小説に書き残したのです。
今回は、それらの漱石作品に描かれた『円覚寺』をご紹介いたします。

円覚寺修行の塔頭

円覚寺修行の塔頭

写真:Naoyuki 金井

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【石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺の塔頭であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄な法衣を着た、頭の鉢の開いた坊主が出て来た。】《草枕》

塔頭とは、大寺院の境内周辺に建立された小寺院の事を表し、現在、円覚寺には19ヶ院の塔頭が残っています。円覚寺に参禅した漱石は『帰源院』に宿泊し、老師から出された公案(課題)の回答をここで考えていたのです。
帰源院は、現在も修行の場なので非公開ですが、《草枕》で描かれた山門への石段を上り、山門からわずかながら漱石が宿泊したであろう堂宇を見ることができます。

三解脱の山門

三解脱の山門

写真:Naoyuki 金井

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「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。」《門》

主人公の宗助は、親友の内縁の女性を奪い自分の妻としたことに、ずっと罪悪感を覚えながら暮らしていたのですが、ついにその罪悪感に耐えられず救いを求めて訪れたのが円覚寺でした。

この山門は、“三門”とも呼ばれる三解脱門で、解脱(覚り)に至る三つの瞑想の手順を示す門で東京増上寺の三解脱門が有名ですね。
タイトルにそのまま《門》とつけていますので、自身の空虚さを罪悪感に置き換えた漱石は、実体験で娑婆と涅槃を分ける結界になっている現在では文化財の山門が印象深かったのでしょうね。

二つの史跡・名勝

二つの史跡・名勝

写真:Naoyuki 金井

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「その代り今度は火に入って焼けず、水に入って溺れぬ金剛不壊のからだだと号して寺内の蓮池へ這入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」《吾輩は猫である》

この蓮池とは、境内の『妙香池』のことですが、蓮の姿を見ることはできません。最もこの池は、1978年に江戸時代の絵図に基づいた大改修が行われたので、漱石の時代とは様子が違っているでしょう。

また同書には、「円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。」と書かれていて、現在、境内を横切るJR横須賀線を描いています。
現在、『妙香池』と横須賀線沿いにある『白鷺池』は、円覚寺庭園として史跡・名勝となっていますが、漱石は、景観よりも池に入っても溺れず、汽車を止めてみせるほどの精神的な力強さを見ていたのかもしれませんね。

彩を添える塔頭

彩を添える塔頭

写真:Naoyuki 金井

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「二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段を上って、その正面にある大きな伽藍の屋根を仰いだまま直すぐ左りへ切れた」《門》

妙香池を通り過ぎた先の大きな伽藍の屋根とは、現在の塔頭の一つである『仏日庵』の藁葺き屋根のことと思われます。仏日庵には、円覚寺を開基した鎌倉幕府8代執権・北条時宗の廟所であり、9代貞時・14代高時も合葬されています。

ここには烟足軒という茶室があり、こちらは川端康成の“千羽鶴”や立原正秋の“やぶつばき”などの小説にも登場しています。更に烟足軒前には大佛次郎の奥様から贈られた枝垂れ桜があり、多くの文学者に愛された見所の多い塔頭なのです。
実際に漱石は、この前を通って禅問答をしに行くので、仏日庵を見た漱石は試験前の生徒のような気持だったのかもしれませんね。

国宝で禅問答

国宝で禅問答

写真:Naoyuki 金井

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【向側に見える高い石の崖外はずれまで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文人画にでもありそうな風致を添えた。「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物を指さした。】《門》

恐らく描写された風景は、前述の妙香池から見た正面の崖上にある堂宇を指していると思われ、前述した仏日庵を左に曲がった先も同じ堂宇なので、この比較的新しい老師の住んでいるところは、塔頭の一つ『正続院』と考えられます。

この正続院は、円覚寺開山の無学祖元の開山塔所で、建長寺にあった祖元の墓塔の正続庵を、円覚寺に移したもので、1781年に院内に座禅道場が開かれ今日に至っているのですが、漱石は老師への公案の禅問答をこの正続院で行っているのです。
ここには国宝の仏舎利殿がありますが、漱石の眼に映る暇もなかったかもしれませんね。

最後に。。。

【「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」】《門》

漱石に実際に出された公案が、この『父母未生以前本来の面目は何だか』で、“自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの”と云う禅問答では入試試験の問題でした。

帰源院で7日間考えた漱石は、再び正続院で老師に答えたのです。

【「物を離れて心なく心を離れて物なし 他に云ふべきことあるを見ず。」】《『漱石全集』第21巻(1997)》

つまり、「自分の両親が生まれる前には、心が無いのですから、自分の元々の顔という、物も無いないのです」という意味でした。
すると老師から「そのようなことは少し大学を出て勉強をすれば云える、もう少し本当のところを見つけてきなさい」とあしらわれたのです。
これにより漱石は、自分には入門する資格はないと考え、見捨てられた犬のように円覚寺を去りました。

禅問答はともかくとして、漱石を始めとした多くの文学者が描いた円覚寺には、私たちが見過ごしてしまっている魅力があるのかもしれませんね。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/07/26 訪問

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