卑弥呼の時代に造られた出雲独自の古墳、島根県「西谷古墳群」

卑弥呼の時代に造られた出雲独自の古墳、島根県「西谷古墳群」

更新日:2015/08/05 10:05

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー
古墳といえば天皇陵で有名な「前方後円墳」があります。しかしここ出雲には独自の形の古墳があります。「四隅突出型古墳」(正式には四隅突出型弥生墳丘墓)です。ヤマト王権とは異なる古墳文化が、卑弥呼が活躍した時代、出雲にあったのです。島根県、揖斐川に面した西谷古墳群(国指定史跡)でこれを見ることができます。

何でこんな形なの?

何でこんな形なの?

写真:松縄 正彦

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この古墳群には32基の古墳がありますが、そのうち6基の古墳が、写真のように四隅が“ベロ”のように張り出した独特の形をしています。

前方後円墳が“天(円形)と地(方形)”という陰陽思想の影響を受けているのに対してこの形はいかにも奇妙です。日本各地に前方後円墳が作られた時代は4〜6世紀(近畿地方は別として)ですが。この西谷古墳はもう少し早く、弥生時代末から古墳時代前期(2世紀末〜3世紀)、あの卑弥呼の時代のものなのです。この当時はまだ陰陽思想などは日本に伝わっていません。

何故こんなベロを張り出したような形になったのでしょうか?ヒントの1つは九州にあります。この時代、九州では「魏志倭人伝」にも登場する“伊都国”が興隆していました。この伊都国にあるのが”平原(ひらばる)古墳”です。

この王墓は、“方形周溝墓”という形式になっています。人が埋葬されている場所の周囲、上下左右4方向に、互いに接触しないように細長い溝を掘り、溝と溝の間、「角の四隅から墓に出入りする」構造がこの墓の特徴です。写真を見てください。四隅突出型古墳では、四隅のベロのような突出部が、方形周溝墓と同じく“通路”になっているのです。

弥生時代後半には全国的に墳丘墓が出てくるのですが、主流は方形の平面構造でした。出雲ではこれを四隅が突出した方形の墳丘墓として独自に発達させたのです。また、この四隅突出型古墳は出雲だけではなく、北陸の越(福井県)にまで広く分布しています。

この西谷古墳群の中で、3号墓(写真)は、一辺が55mの大きさですが、9号墓が日本最大で、約60mです。またこの古墳群では数十年の間に、このタイプの古墳が4つ作られています(3号、2号、4号、9号の順)。また、これらの古墳は葺石で覆われており、この様子を2号墳で見ることができます。

どんな構造になっている?

どんな構造になっている?

写真:松縄 正彦

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3号墳では、上部の中ほどに男王・女王が木棺の中に横たえられ、地中に埋葬されていました。棺内には水銀朱が厚くしかれ、この上に遺体がおかれていたのです。ちなみにこの朱は中国製である事が判明しています。

またガラスや鉄剣なども木棺内から見つかっているのですが、これらも中国や半島からもたらされたものです。出雲は早くから北九州や大陸と交流しており、日本海が大陸とのメインの交易路でした。日本海側を現代では“裏日本”と言いますが、当時は“裏”ではなく“表”日本だったのです。

西谷古墳群では2号墳の内部に展示場が設けられ、写真のように、埋葬時の様子を見る事ができます。女王が安置され、女性らしく、腕輪、髪飾り、頸や胸飾りなどをしている様子が再現されています。

消えた出雲の王

消えた出雲の王

写真:松縄 正彦

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さて、3号墳からは出雲だけではなく、いろいろな地方からの土器が出土しています。吉備(岡山県南部)、周防(山口県西部)の土器をまねたもの、さらに丹後や越の土器などです。

魏志倭人伝には邪馬台国が連合体として記されていますが、この土器の出土状況からも、3世紀頃、遠隔地の首長同士が手を組んでいた状況が分かります。ところでこのように隆盛を誇っていた出雲ですが、この四隅突出型古墳は9号墓を最後にして突然姿を消してしまいました。

何があったのでしょうか?日本史では“消えた”、あるいは“空白の4世紀”という呼ばれ方もします。西谷古墳群で四隅突出型古墳が造られなくなった後、4世紀(1600年前)、古墳時代になって、出雲に、前方後円墳が出現します(大寺1号墳)。

また出雲最大の前方後円墳である今市大念寺古墳はこの西谷古墳群のすぐ近くにありますが、6世紀後半の古墳です。

出雲の王が消えるとともに、代わりに近畿のヤマト王権の影響が突如出現したかのようですね。邪馬台国がどこにあったのかは不明ですが、弥生時代の倭国の状況が伺えるのがこの四隅突出型古墳といえるでしょう。

出雲弥生の森博物館

出雲弥生の森博物館

写真:松縄 正彦

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この西谷古墳群の周りは史跡公園になっています。また、この公園の中、小高い位置にある古墳群とは道路を隔て“出雲弥生の森博物館”があります(写真)。

博物館の中では、3号墓での工事の様子、葬儀の様子などが、ミニチュアの人形を使いながら面白く再現展示されています。顔に入れ墨をしたり、あくびをしたりと、ついニヤッと笑ってしまう人形もおり、なかなか面白く見る事ができます。またガラス製の勾玉などの出土品も展示されています。

おわりに

さて、近畿のヤマト建国時の王は系図上、出雲神の娘を娶っていた事になっています。また、奈良県の纏向遺跡については諸説ありますが、この遺跡からは山陰や北陸からの土器も多数出土しています。

これらの事から考えると、出雲の勢力は消えたのではなく、ヤマトと手を組み、その後の大和政権成立に大きく寄与した、と思われます。この萌芽がここ西谷古墳群にあるのです。

なお、この四隅突出型古墳を“無料”ガイド付きで見学する事も可能です(MEMO欄の博物館のホームページで“市内の遺跡・文化財”コーナーを参照してください)。さあ、あなたも弥生時代、3世紀の出雲に向け、いざ出発!

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/06/07 訪問

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