写真:松縄 正彦
地図を見る円珍和尚は853年に法を求め、唐に行きます。6年間唐にいて、一千巻の貴重な経典を携えて帰国するのですが、帰国時の船中で現れ出たのが新羅明神です。この神様は三井寺の守護神の1つとなり、境内には“新羅明神像(国宝)”が収められているお堂“新羅善神堂”があります。
ちなみにこのお堂、お寺のホームページには掲載されていませんが、三井寺の入口、写真の仁王門に向かって左側の奥手にあります。三井寺の通常の拝観コースには入っておらず、東海自然歩道の道中にひっそりと佇んでおりますので行かれる場合にはご注意ください。
ところで平安時代の武将に通称“八幡太郎”と称される源義家がいます。この弟に“源義光”がおりますが、彼の通称は“八幡”ではなく“新羅三郎”です。父親であった源頼義が新羅明神を尊崇し、三男であった義光を新羅明神の社前で元服させた事により名前がつけられました。
後日、三井寺は源氏の氏寺となり、鎌倉・室町時代を通じ庇護される事になります。
写真:松縄 正彦
地図を見る天台宗には円珍和尚の他にも優れた僧がいました。最澄に忠実に仕えたとされる「円仁」がその1人です。
この円仁を祖としているのが天台宗の“山門派”で、円珍の死後、円珍を祖とする”寺門派”と長期にわたり対立する関係になってしまいました。
その生き証人が“弁慶の引きずり鐘”です。武蔵坊弁慶は義経の家来になる前、山門派の僧兵をしており、ある時この鐘を三井寺から奪ったのですが、鐘を撞いた所“イノー、イノー(関西弁で”帰りたい“)”と響いたので怒って谷底に投げ捨てたとされます。今も鐘を見ると、その時の傷跡が生々しく残されています。
弁慶は乱暴が過ぎて比叡山から追い出されたといわれますので、このお話しの真偽は別にしても、さもありなんという所でしょう。
写真:松縄 正彦
地図を見るところで、三井”寺の名前の由来となった湧き水は、金堂横西側の“閼伽井屋(あかいや)”に今でも“ボコ、ボコ”と音をたてながら湧き出ています。天智、天武、持統の三天皇の産湯としてこの湧き水が用いられたのです。
この閼伽井屋の建物の正面上部に左甚五郎作の“龍の彫刻”があります。
お寺にいる龍の造形物といいますと前記のように鐘や、”仏教を保護”するという意味、また龍と水との関係から”防火”の意味を兼ね、建物の屋根の下、腕木の小口などに彫られているのが普通ですが、ここでは水つながりで格子戸の上の壁部に彫られています。
この龍、非常にコンパクトに彫られていますが、うまく長い身体を想像させます。龍の周りには飾りなどは一切なく、シンプルに彫られているのが特徴です。
写真:松縄 正彦
地図を見るさて、円珍和尚と関係する重要なお不動さんがあります。通称“黄不動”、つまり金色不動明王”です。和尚が修行している目前にこのお不動さんが現れ、“帰依するならば汝を守護する”と言った事で、この黄不動の絵が描かれ、現在、これが三井寺の秘仏(国宝)になっています。
ちなみにお不動さんでは高野山明王院の”赤不動”、京都青蓮院の”青不動”と、ここ三井寺の”黄不動”が三大不動画像として有名です。
現在では、黄色不動は日本国内でもほとんど見られませんが、境内の微妙寺(写真左の赤い円内)にゆきますと、この貴重な“黄不動の御朱印”が頂けます。なお微妙寺の本尊は「天智天皇」の御念時仏といわれる“十一面観音”です。御朱印を頂く間、待ち時間中に拝む事ができます。
また円珍和尚、修験道の開祖で鬼神を使役した事でも有名な「役行者(えんのぎょうじゃ)」が大好きだったようです。奈良や熊野の山を巡礼したのですが、この事績が三井修験道の起源になっています。彫像で有名な「円空」もこの寺で山伏になりました。
微妙寺の向いには新しく“文化財の収蔵庫”が建てられ、三井寺所蔵の貴重な品々、例えば“金色不動明王の絵(秘仏ではありません)”や“役行者が鬼神を使役している絵”、また有名な、“朝鮮鐘”なども展示され見学する事ができます。
ところで、鐘を吊り下げる部位には龍が造形されている事をご存じでしょうか?日本や中国の鐘では“二匹の龍頭”が、朝鮮鐘では“1匹の龍”が造形されてます。
龍が仏教を守護するといわれ、鐘それぞれに、独特の表情をした龍が造られているのですが、三井寺の朝鮮鐘、中々迫力があります。頭だけではなく、爪のある手足を大きく広げ、生き生きとした迫力ある龍として表現されています。左甚五郎の龍はどことなくユーモラスな龍でしたが、この造作の違いはお国柄の違いでしょうか?表情を比べてみるのも面白いです。
また近江八景として親しまれている”三井の晩鐘”ですが、これは前記の弁慶の引きずり鐘を模して後日造られたものです。またこの鐘、撞くと余韻が長く、ゴォ〜ンというよりはズゥ〜ンというお腹に響く音がします。あなたも、琵琶湖へ音を響かせてみてください。
この三井寺、もともとは古代の“大友氏”の氏寺で、大友皇子(天智天皇の息子)が“壬申の乱”で大海皇子(天智天皇の弟で後の天武天皇)に滅ぼされた後、その子供の大友村主(すぐり)与多王によって建立されたとされています。
またこのお寺は山門派、平家や新田勢などに焼き払われたり、秀吉により廃絶されたりと、何回も危機的状況に陥った歴史をもっていますが、その都度見事に“復興”してきました。
これは与多王の思いが脈々と生きているのでしょうか?何か人生を見ているような気もします。三井の晩鐘の”余韻の長さ”などにもこのような事が反映されているのかもしれません。
境内が広い事もあり、興味をもって見始めると時間がいくらあっても足りませんが、人生などをそこはかとなく考える時、また寺の歴史や人との関係に思いをいたしながら、静かに境内を散策するだけでも楽しめる場所です。
アクセスの良さ、雰囲気の良さ等、歴史好きな「大人の知的スポット」の1つとしておすすめです。龍も面白いですよ!
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(2024/4/24更新)
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