山陽道の宿場町・福山市神辺町〜神辺本陣にはあのお姫様も宿泊!?

山陽道の宿場町・福山市神辺町〜神辺本陣にはあのお姫様も宿泊!?

更新日:2015/07/23 18:31

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
福山市神辺町は、中世には神辺城(村尾城)が築かれ城下町として栄えていました。水野勝成が、福山城と城下町を整える以前から栄えた政治経済の中心地でもありました。そんな神辺は、江戸時代以降は、山陽道と石州街道が交わる宿場町として栄え、神辺本陣と脇本陣を構え、福山藩主の休憩所・御茶屋屋敷もあり、城下町の面影と宿場町の繁栄ぶりを偲ばせる町並みが残ります。現存する本陣も見学して、江戸の風雅を体感しましょう!

宿場町の貫録を窺がわせる立派な表門

宿場町の貫録を窺がわせる立派な表門

写真:村井 マヤ

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神辺には、西本陣と東本陣があり、今日残っているのは尾道屋菅波家が勤めていたこの西本陣のみ。ここには、お殿様やその近習たちが宿泊し、残りは東本陣や寺院、町屋に分泊しました。

現存する西本陣の隣には、その采配をする場所であった問屋(といや/現在の観光ガイド待機所辺り)があり、本陣に宿泊する1週間ほど前に部屋割りの書類のようなものが神辺本陣に届けられます。

写真は、御成門です。この門は、本陣に大名が宿泊する際に利用された門です。酒造業を営んでいた尾道屋菅波家は、本陣東側に住まい部分と酒蔵などがありました。現在は、本陣主屋や本陣の裏手の馬屋、物見櫓などが残っています。ちなみに東本陣は、本荘屋菅波家で尾道屋の分家筋にあたります。東本陣は、明治期に解体され、建物の一部は府中市のお寺の本堂として移築されています。
菅波家は、尾道屋という屋号から推察されるように、尾道から神辺城下に移り住んだ一族でした。

美しい白壁やなまこ壁、黒塗りの土壁が威風堂々と佇む

美しい白壁やなまこ壁、黒塗りの土壁が威風堂々と佇む

写真:村井 マヤ

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写真は、神辺本陣の前庭の様子。二階建ての立派な蔵も見受けられます。
本陣の主屋は、入母屋の屋根、重厚な本瓦葺の書院造。入母屋の屋根の下には敷台を備えた玄関があります。玄関の間、奥に三ノ間、その右手には札の間、その左手には二ノ間が続き、さらに奥が御成の間になっていました。
この本陣主屋の東側に菅波家主屋があり、その裏手には21室163畳もの部屋がありました。2階や裏手の倉座敷なども含めて27室200畳あまりあり、50名から70名の大名の家来衆を宿泊させました。

1週間くらい前に延べ人数や部屋割りなどの書類などが届く話をしましたが、それを割り振りする問屋は、大名家から「これでお願いします」と金子を渡され、それをまずは本陣、それから残りの家来衆が宿泊した町屋や脇本陣に割り振りしたわけです。

参勤交代の制度が終わるころには、本陣を勤めて、没落した商家や庄屋もありました。
ある意味名誉職で、本陣を任せられた家には、御成門と名字帯刀も許され、それは一族の誇りでもありました。

「札の間」は、大名が投宿の木札を掲げた部屋

「札の間」は、大名が投宿の木札を掲げた部屋

写真:村井 マヤ

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写真は、「札の間」。ここには、大名が投宿した際門前に掲げた木札を保管していました。以前は、当時使用された木札をこの部屋の天井部分に掲げていた様子もご覧になれましたが、現在は劣化を防ぐため大切に保管されています。

この札の間の左手には二ノ間がありますが、その西側全面には床が設けられ、三ノ間とともに対面所として使用されたそうです。さらに奥の御成の間は北、西の2面が北側の庭に開かれていました。西側に設けられた床や棚の壁は、唐紙で仕上げられた貼付壁という高級な造り。

残念ながら、外側から本陣内を覗き見る事しかできませんが、なんといっても本陣の主屋は、延享5(1748)年の建築。江戸時代の建材が、現在まで残っているのは奇跡的です。建築当時のままというのが、この神辺本陣の素晴らしい点ではないでしょうか。

宿泊した大名が分かる木札(宿札)〜今も大切に保存

宿泊した大名が分かる木札(宿札)〜今も大切に保存

写真:村井 マヤ

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写真は、レプリカですが、本物も保存されています。このような宿札が、37枚ほど残っています。
現在、劣化を防ぐため展示はされていませんが、本来この木札は、大名が宿泊や休憩をする際に門前の掲げられていたもので、レプリカでもどんな方がどんな風に本陣を利用したのか十分推察できます。

木札は、基本的には宿泊する大名家が用意します。本陣側が準備する場合は、「○○様」というように敬称が書かれています。また、本陣の利用方法は、宿泊だけではなく、休憩や食事のみということもありました。

実は、天璋院篤姫も神辺宿に宿泊したとのこと。大河ドラマ放映中に古文書が発見され、江戸参府が陸路だったことが分かりました。しかも宿泊したのは、この西本陣ではなく東本陣でした。

神辺宿の次に宿泊した矢掛本陣には、篤姫一行の記録が残っており、それによると、嘉永6(1853)年9月16日に神辺東本陣を出立し、9月17日には矢掛本陣に宿泊したとありました。
普通、大名の参勤交代は、天候などに左右されますが、1日10里(約40km)行程が普通でした。女性の場合は、6里行程だったと考えられます。

大河ドラマで篤姫が海路で江戸参府していますが、そのような藩は当時西国の大名など4、5藩のみでした。しかも、最初海路だった大名家も陸路に変更した所が多かったとのことです。
費用もかさむし、天候に左右され危険だったということと、何より船旅は陸旅と違ってはっきりとした旅程が立てにくかったのが、海路から陸路に変更された主な理由だったようですね。

現在も残る神辺本陣(西本陣)はあの筑前黒田家の本陣!

現在も残る神辺本陣(西本陣)はあの筑前黒田家の本陣!

写真:村井 マヤ

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尾道屋菅波家が本陣を勤め始めたのは、1661年から1673年の寛文年間のこと。その時筑前黒田家の本陣を勤めたので、それ以降黒田家専属になったようです。
他家は、脇本陣である東本陣を利用しました。ただし、東本陣の都合が悪いときのみ、西本陣が黒田家以外の大名家の御用を務めました。

この建物をよく観察すると、西本陣が主として黒田家の御用を勤めたことが分かりますよ。それは、瓦の家紋です。「藤巴」は黒田家の家紋ですよね。この家紋がある本陣には、なかなか他の大名家は泊まりにくかったでしょうね。

神辺本陣は土日のみ見学可能ですが、希望があれば平日でもご案内して下さいます。平日ご見学希望の場合は、神辺町観光協会に電話で予約をして下さいね。詳しい連絡先は下記MEMOをご覧下さい。

神辺の町で、しばし江戸風情を味わって

福山市街地から神辺町までは、およそ15分、電車ですと約13分。神辺本陣に辿り着くまでに、風情ある町並みをご覧になれます。狭い道沿いに江戸の風情を残した商家が軒を連ねていますので、「ここは、ちょっと違うな・・」と、感じられるはず。

また、神辺本陣からさらに近くの菅茶山旧宅・廉塾に歩いて向かわれるといわゆる「食違」、「鍵の手」と呼ばれる防備のための道の形が見受けられます。これは、城下町や街道沿いの町並みに特徴的なものです。町並みを歩く際は、そんな江戸時代の宿場町風情も楽しんでみて下さいね。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/07/04 訪問

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