権力と孤独を抱きしめて〜イスタンブール・トプカプ宮殿のハレムに生きた女達

権力と孤独を抱きしめて〜イスタンブール・トプカプ宮殿のハレムに生きた女達

更新日:2019/03/29 16:02

万葉 りえのプロフィール写真 万葉 りえ レトロ建築探訪家、地域の魅力伝え人
イスタンブールの旅の夜を彩るベリーダンスのショーのように、艶やかな美女が王様の周りにたくさんはべっている…「ハレム」と聞くとそんなイメージがあるのでは?

ハレムは栄光と失脚、そして陰謀が渦巻く女たちの戦いの場。血生ぐさい事件も数しれません。それなのに、美しいイズミックタイルと金で装飾された豪華な館は、何事もなかったように移り変わっていった主たちを見送って、今も多くの観光客を惹きつけています。

宗教と民族の攻防の地に建つ宮殿

宗教と民族の攻防の地に建つ宮殿

写真:万葉 りえ

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ローマ帝国が359年に東西に分裂した当時、広大な領土を持っていた東側のビザンティン(東ローマ)帝国。しかしその国も次第に国力を失っていき、1000年の後にはイスタンブールに現在も残っている城壁の内側だけになっていました。それでも5世紀にテオドシウス帝が築いたこの城壁は難攻不落といわれ、1453年までビザンティン帝国を守っていたのです。

その難攻不落の城壁を打ち破ったのがオスマン帝国の若きスルタン・メフメット2世でした。三方を海で囲まれた高台に立つトプカプ宮殿は、そのメフメット2世が18年もの年月をかけて1478年に完成させたスルタンの居城。トルコの旅でここを見逃してはいけないと、多くの観光客が訪れています。

そのトプカプ宮殿の中。国政を行う外廷とスルタンの生活空間である内廷に接して、宮廷の女たちの生活の場であり、戦いの場でもあったハレムが建てられています。
ハレムの官能的で倦怠感に満ちたイメージは、19世紀の西欧の画家達が想像してつくりあげたもの。では、実際のハレムとはどんなものだったのか・・・。

女の館は、細部にまで工芸技術の粋

女の館は、細部にまで工芸技術の粋

写真:万葉 りえ

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メフメット2世がトプカプ宮殿を建てた当時、ここにハレムはありませんでした。オスマン帝国の最盛期を築いたシュレイマン大帝(在位1520〜)が初めて寵妃ロクセラーナを宮殿に入れたといわれていますが、当時はこんな豪勢な建物ではなく、ハレムはムラト3世(在位1574〜)の時代に完成し、その後増改築を行っています。

ハレムの建物は6層からなり、300の部屋に中庭と通路と階段が入り組む複雑なつくり。見学できるのはそのうち約20の部屋と中庭などですが、金やタイルの装飾だけでなく、軒下や窓枠などの細部にいたるまで手を加えた壮麗なつくりには目を見張るものがあります。

女の館は、細部にまで工芸技術の粋

写真:万葉 りえ

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ハレムでは、奴隷身分の侍女も含め多い時には1000人以上の女性が暮らし、その一部がスルタンの側室でした。スルタン以外でここには入れる男性は、黒人宦官と年少の王子のみ。
男子禁制という点などハレムには江戸幕府の大奥と同じようなイメージがあるかもしれません。しかし「生き抜く」ということの壮絶さにおいては・・・

スルタンの権力を伝える大広間

スルタンの権力を伝える大広間

写真:万葉 りえ

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側室となった女性も、もとはすべて奴隷市場で売られていた少女達です。オスマン帝国は民族による差別はなかったので、奴隷商人から売られて様々な国や民族の女性がこの宮殿に入ってきました。
その天涯孤独の少女たちを側室にしたのは、妃の一族が権力を持つことを避けるため。オスマン帝国が弱体化する要因は作らないという理由だったのです。

イスタンブールの奴隷市場から連れてこられた少女達は、各所におかれた宮殿の一つで、宦官によって、歌舞音曲、礼儀作法、料理、裁縫、アラビア文字に詩や文学などあらゆる教養を身につけさせられました。その後トプカプ宮殿のハレムへ移され、地位を得ていくのです。

スルタンの権力を伝える大広間

写真:万葉 りえ

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写真は「皇帝の広間」ですが、この部屋に入れるのはスルタンの母后、第一夫人と愛妾たち、そして子供たちだけでした。私的な空間なのに天井までこれだけの華やかさ。ここでベリーダンスなども繰り広げられたのでしょうが、わざわざ楽師たちが演奏するためのバルコニーを設けるなど大変贅沢な空間になっています。

ハレムの最高権力者となっても

ハレムの最高権力者となっても

写真:万葉 りえ

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ハレムで最高の権力を持っていたのはヴァリデ・スルタン(スルタンの母親)です。
「母后の部屋」は、息子がスルタンになった母親だけにおくられる特別な部屋。写真でも、ロココ調で装飾された室内の優雅な雰囲気がお分かりいただけると思います。この部屋は二階まで広がり、寝室だけでなく専用の礼拝堂や浴室も持っていました。

孫がスルタンになってもハレムで皇太后の位をゆずらず殺されたアフメット1世の妃キョセム・スルタンはギリシア生まれ。ハレムの女性が政治に介入した始まりだといわれているシュレイマン大帝の妃ロクセラーナ(ハセキ・ヒュッレム)はウクライナ生まれ。ここの主になったのはいろいろな生まれの女性達です。

最も偉大なスルタンといわれたシュレイマン大帝を牛耳ったといわれているロクセラーナだけは例外的に正式に結婚したのですが、他のスルタンの母親はそうではありませんでした。奴隷としてハレムに入り、スルタンの母親としてここで最高の権力を持ったとしても、彼女たちの身分は最後まで奴隷のままだったのです。

王子を生んでも、先にはオスマンの掟

王子を生んでも、先にはオスマンの掟

写真:万葉 りえ

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トプカプ宮殿から近いアヤ・ソフィアの境内には5人のスルタンが眠っています。
シュレイマン大帝の子で酒と女に溺れたセリム2世が酔ったまま風呂で倒れた時には、セリム2世の棺の周りに跡継ぎのムラト3世以外の息子の棺が並べられ、ムラト3世が亡くなった時にはその翌朝には長男のメフメット3世以外の19基の小さな棺がムラト3世の棺の周りにおかれたといいます。

次のスルタンとなる息子以外の弟たちは、父スルタンがなくなった途端帝位継承争いを避けるためにオスマンの掟にしたがわされた歴史がありました。それは幼児であっても。のちの時代には殺すのではなく幽閉という形になりましたが、長い幽閉生活でスルタンの位が回ってきた時には狂人となっていた者もいたのです。

王子を生んでも、先にはオスマンの掟

写真:万葉 りえ

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側室になったから、王子を生んだからそれで安泰というわけではなく、たとえスルタンの寵愛を受けて王子を生んだとしても、自分の息子がスルタンにならない限りは先がわからない運命。ですから当然他の側室が生んだ王子を排除しようと、様々な暗躍も入り乱れていました。

天涯孤独の身の上から、このスルタン母后の広い部屋で優雅に生活できるようになったとしても、どれだけの嵐が心中で吹き荒れていたことでしょう。

おわりに

壮絶な女性たちの歴史を秘めながらも、血も涙もすべてはねのけてきたのかと思えるほどハレムの中は華々しい装飾で満ち溢れています。

トプカプ宮殿を訪れた際は、運命に翻弄されながらもここで生きた人々を思いながら、その歴史さえかき消してしまうような美しさを持つハレムをぜひ見てほしいと思います。

イスタンブールは見どころがたくさん。MEMOも参考にして、たくさん感動してきてください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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